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ニキビまで愛せるようになったらそれはもう私の勝ち。(言い訳)

メイクした顔を可愛いと言われた。
そりゃそうだ。自分の顔が可愛いと思えるまで鏡の前に立ち、油絵のように塗り重ねているからそりゃ可愛いくて当たり前だ。

わたしは生まれてからずっとニキビと闘っている。
母にずっとアボカドを餌付けられ、枕カバーも定期的に洗い、中学生の頃から2000円以上もするニキビ用化粧品を浴びるように使った。

私は油が得意じゃない。カルビもポテチもフライドポテトも、胃もたれすることを恐れて自ら進んで食べない。

なのに、私はポテチが大好きな友人よりも、
洗顔料を一切使わない友人よりも、ニキビがあった。
思春期のわたしにとって、ニキビの出現は一生解けない難題だった。
雑誌を読んでも、CMを見ても、ニキビは敵!撲滅せよ!の一本調子である。
だがしかし、君たちの洗顔料を使っても、化粧水を使っても、私の顔のニキビ達は撲滅されず、私の身も心も擦り減っていくばかりなのだ。
もう化粧品も、アボカドも信頼できなくなってしまい、(けれどアボカドは大好物なのだ。)よって、ニキビが定期的に出来る私の顔は、もはや攻略不可、心の中で両手を上にあげる。
私はニキビに降参を告げた。

顔にニキビがあるのは、果たして=(イコール)汚いになってしまうのか。

雑誌やテレビに出てくる、美しいと称えられている女の子は誰一人として肌に凹凸がなく、海の外からやってくるアイドル達は毛穴、ましてや毛さえなく、陶器よりもまっさらである。
わたしたちはそれらを目にした時、思わず美しいと思う。

思わず美しいと感じるのは、幼い頃から周りに美しいと形容されてきたものがそれらだからであり、
わたしたちはそれらがこの世界では美しいと呼ばれていることを発育段階で知る。

美しいという感情はどんな時も後から生まれていた。
だから、わたしは、わたしたちは、知らぬ間に周りから美しさを押し付けられて生きてきた。
のだとわたしは思う。知らないけど。


太れば太るほど愛される近所の野良猫が羨ましかったし、あんなに毛が生えてるのに可愛がられる動物達を見て不思議だった。
夏にTシャツから脇毛がみえている女の子に違和感を感じるのはちゃんちゃらおかしい話であるはずだった。男の子に脇毛が生えていても、すね毛が生えていても、なんの違和感も抱かないのも頭がおかしい話であるべきだった。

だけど世界は人々の違和感で動く。違和感を半分以上の人間が感じたならば、
女の子の脇毛は世界から無くさなくてはいけない。気がしてしまうのだ。

違和感を感じない選択が、世間では常識となってしまう。
不思議な話だ。女の子も、男の子と同様、皮膚の薄いところに毛が生えてくるだけなのに。

ニキビも同じだ。ニキビがある人がテレビにあまり出てこないのは、それは美しくないとみなされてしまうから。
ニキビがひとつあるだけで、
そのニキビは、私達にとって、違和感となってしまうから。

大学生になって、本格的にメイクするようになった。
自分の顔の色がなるべく均一になるように色んなものを塗り重ねていた。
重ねれば重ねるほどニキビは現れる。

だから今度は、全く塗らないでみた。
生まれてから私の肌は、だいぶ傷ついてしまって
赤くなった傷跡が所々に付いていた。
ニキビができ始めてから、自分のすっぴんとちゃんと向き合ったのはこれが初めてだった。

所々にある赤い点々は、初めて見た時は痛々しかった。
白く膿んだ所は思わず摘んで潰したかった。
ニキビって本当に潰したくなる衝動に駆られてしまう。

けれど
ゲシュタルト崩壊するくらい見たら
案外そうでもなかった。

沢山悩んで、傷ついた証だと思って、わたしは生まれて初めて自分のニキビを認めた。

ニキビがない人が羨ましい。
毛穴がない人が羨ましい。

いつしかこれはわたしの口癖になったし、わたしが掲げたスローガンはニキビゼロだったし、宗教を信仰するかのように美肌至上主義になっていき、皮膚科の薬がいつの間にか生活必需品の項目に加わっていった。


でも本当は、本当の本当は、私は私の尺度で、私の美しさを追求したい。

ニキビができるたびに鏡を割りたくなる衝動を無くしたい。

自分のニキビまで愛せるようになったら、

それはもう私の勝ち。

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