推し短歌と短歌になりきれなかった駄文
この企画があるよ!と教えてくれたのは学生時代の友人であった。教えてもらう前から企画自体は知っていたのだが、書く理由ができたのはありがたいので、書いてみることにした。
私には推しが2人いる。天国を見せてくれる推しと、地獄を一緒に歩いてくれる推しだ。
天国を見せてくれる推し
見上げれば君の名前に咲いている花があるから一歩踏み出す
この推しはいわゆるアイドルで、眩しい。ずっと眩しい。いつかのコンサートの演出で、この推しが歩くたびに花が咲くというのがあったのだけど本当にこの演出が自身の推しの概念と一致していて感動した。推しが歩くたびに命が芽吹き、枯れた花も咲き乱れ、死者も生き返り、世の中の闇は救われると本気で思った。結構本気だ。
この推しは生まれて初めての推しで、罪深いなと思う。初めて見た鳥を親だと思うのと大体一緒である。
推しという概念は君そのもので君以外のなにものでもない
そしてこの推しは結構自身を狂わせた。ここでは言えないこともやった。ひどいものである。若気の至りといえばそこまでだが、今考えると推しの「光」しか持っていなかったからと納得がいく。高校卒業後、もう片方の推しに出会った。
地獄を一緒に歩いてくれる推し
名に宿る光に照らされどこまでも地獄の日々を歩いて行ける
前に書いた推しを見てもどうにも辛かった時があった。眩しすぎたのだった。自身の闇が深すぎて、彼らの光が眩しかった。そんな時、同じ闇に入り込んでくれるのがこちらの推しだった。
ただ、寄り添い、つらいねと、そばにいてくれる。日々は、生活はつらい。生きるのはつらい。つらいけど、続いていく。その地獄でも、一緒に歩いてくれる推しだ。
すきでいる自分がすきになれるからあなたのことを推していきたい
推しがいることは幸せだなあと思う、すごく。推しがいないことは考えられないし、推しがいない自分はもはや自分ではないとも思う。考えも、言動も、好きなものも、影響に影響を受けてきた。その時はヲタク特有の「推しがすきだから私もすき」だったかもしれないけど、どうして推しがすきなのか?いつからどんなところがすきなのか?と聞かれると詳しく答えられない。狼狽えて、しどろもどろになる。それは、もはや人生に密着しすぎて、かなり強引にいうならば境界線が曖昧になっているのだ。
これは推しと自分の境界線が曖昧になっているのではない。自身が作り出した推しの概念(もはやこれは自身なのかもしれない)と自身が混ざっているということだ。これはある意味、自己肯定感の低い自身にとって、推しを通して自身をすきになっているということなんだなと解釈している。
ここまで言葉を尽くしてきたけれど、所詮ヲタクに語れることなどほんの、ほんの僅かで推しのことなんかこれっぽっちもわかっていないのだ、と思いながら床に着く日々である。
すき尊い無理死ぬヤバい泣く辛い推し光る度減っていく語彙
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