私の体罰全否定論。
しばらく時間が空いてしましました。この間に様々な本を読み、様々な考えを知り、様々なことを考えました。
今回は多少過激な表現や、持論が多く含まれており長い文になることが予想されます。よければお読みください。
体罰を考えるようになったきっかけ
私が、体罰について考えるようになったのは高校1年生のとき。
大阪の桜宮高校バスケ部での体罰により選手が自殺したニュースがきっかけだ。
私はHSP(Highly Sensitive Person)だということが最近わかった。
HSPとは「非常に感受性が強く敏感な気質をもった人」のことだ。
私はこのニュースを見た時に、被害を受けた選手の感情に移入してしまい数日間眠れなくなり、吐き気をともなう日もあった。それ以降、トラウマのようになりスポーツに関わっている時や、スポーツニュースをみているときにフラッシュバックのように度々悩まされることが今まで続いている。
好きなスポーツをしているのになぜ暴力を受け、死ぬまで心を追い込まれなければならないのか。選手のこと思うと、悲しくてどうにかしたいと思った。亡くなってしまった選手のためにできることは、忘れないことと今できることを精一杯やることだと最近気づき始めた。というわけで最近活動を始めています。
体罰による影響とは
スポーツの本来の目的は「気晴らし、楽しむ、余暇」(余暇までいくとレジャーの要素が強いのかな)である。そこに暴言・暴力は必要ないのだ。
ましてや、社会では犯罪とされる行為が指導者が許されるはずはないのだ。
暴言・暴力を受けた生徒は犯罪抑制力にも関わる脳の前頭前野の容積が平均20%近く減少することがわかっている。下の記事はハンドボールで起きた、準優勝の賞状を生徒の前で破り捨てたという問題である。
最近では、韓国のスポーツ界で過去の暴力などが告発される問題がどんどん出てきている。韓国に限られたことではないが、日本でも度々ニュースになるが、そういった指導を受けてきた選手は同じことを繰り返し、暴力でしか物事を解決できなくなるのだ。
体罰の異なる感じ方
体罰を受ける選手は大きく分けて二つの行動に別れる。
一つは、理不尽だと思いながらも「ちくしょう。」「見返してやる。」といった反骨心で頑張るタイプだ。多くの指導者はこれを求めているのだろう。しかし、このような選手は、反骨心で動いているためひねくれた性格になったり、自分で考え行動するということができなくなるのではないか。
もう一つのタイプは、「なぜ理不尽に殴られなければならないのだろう。」と思い、苦痛を感じ、精神的に苦しめられるが、親のため、チームのため、推薦の影響で辞めたくても辞められず、思い詰めてしまうタイプだ。こういった心の優しい人間は、耐えられなくなってしまうのだろう。
暴力による支配
暴力で支配するのは簡単である。脅迫と変わらず自分の思い通りに動いてくれるからだ。中学や高校といった短い期間で指導者の勝利のために結果を残すためには向いている手法かもしれない。しかし、これはドーピングとなんら変わらない。選手の尊厳も、スポーツの本来の目的も、選手のための教育でもなんでもない。暴力による支配というのは、北◯鮮のように恐怖に怯えさせまとめることができる。人は麻痺し、この人は正しい、暴力は当たり前の日常になり、結果を残し、あの指導者のおかげで成長できたと勘違いしてしまう。そして、当事者も指導者になり同じ過ちを繰り返す。悪循環極まりないのだ。
スポーツで笑顔に
このスポーツ界を変えていくためには、体罰をしている。もしくはしていた指導者が過ちを認め、謝罪し、なぜそのような指導をしてしまったのかを考え、発信していかなければならない。
スポーツを理由に苦しむ人をなくし、笑顔が溢れるスポーツ界に貢献していきたいと思う。
今私は、「スポーツで笑顔に、輝く明日を見つけだす」をコンセプトとしたブランドを立ち上げようとしています。できることから一つずつ、より良い明日になるように活動していきたいと思います。
ここまで読んでくださった皆様、心から感謝申し上げます。