足るを知る者は富む、このことわざはきっと今の僕が憧れている人物像である。
クーパー家の晩餐会という映画の中にこんな台詞が出てくる。
『生きる哀しみや違う人生への憧れは、誰もが抱いている。』
僕はよく思うのだ。あの時こうしたら、もっと変わっていたのか?もし、そっちを選んでいたらどうなっていただろうか、など。
知ってるワイフというドラマの中にこんな台詞が出てくる。
『選択を変えれば、幸せになれるとでも思ったか?』
このドラマに出てくる主人公は、幸せになるために選択を変えたが、新しい選択の先は幸せは無かったのだ。
実に”選択"とは、表面的なものである。
そして人間は、出来事は"選択”によって引き起こされた事と捉えてしまう。
だから、選択をコントロールして、幸せを手にしようとするのだろう。
まぁ、幸せに全く関係ないと主張するつもりは無い。そんなに人は強く無いと思う。
でも、世の中の大抵のことは、自分の解釈の範疇の話であると最近よく感じる。
もっと良い車に乗りたい、もっと可愛い人と付き合いたい、もっと良い家に住みたい、欲というのは、放っておいたら、雑草のようにいくらでも育つ。大切な花の栄養も奪う。歩く所も無くなる。
自分は今、足りている。
自分が少しでも幸せに感じる瞬間があれば、それで良いのだ。
何かを選ぶという行為に幸せは隠れていない。
選んだものを大切にする行為に幸せがやってくる。
心の底からそう思えるには、もう少し修行が必要かなぁと思う今日この頃だ。
もう3月か。