私が思う陰キャと陽キャについて…
前書き
某ネットコミュニティー(三ツ星スラム/プロ奢スラム)で、陰キャと陽キャについての議論が巻き起こっているのを観測したので、それについての私の考え、いわば偏見について備忘録的に書き残す事とする。
なぜ、陽キャと陰キャの議論が起きているか?
多分、この某コミュニティー民の一部が、陽キャについてつよい憧れがあるから。陰キャとしてではなく、陽キャとして生きてみたいのかと。
私が思う、陽キャと陰キャの定義
陽キャとは、
集団のリズムで生きている人間。会話を脊髄反射的に行なう人間。大概、集団の為に生きるので集団で生きていく為の能力を持ち、立ち振る舞いを心得てる傾向が強い。(表面的な会話、身なりが良く、世間的な常識など)
陰キャとは、
自分のリズムで生きる事を重視している人間。大概一人で行動するので、陽キャが持ち合わせている能力や立ち振る舞いを心得えてないし、価値があるとも思わない。大概自分から会話する欲はなく、会話に反応すればなんとか会話できる。物理的なコミュニュケーションではなく、文字コミニケーションの方が得意な傾向が強い。
陰キャは陽キャに成れるのか?
重視しているリズムが違うし、生きる目的が違う生き物なので陰キャが陽キャに、成るのは実質不可能に近いかと。記憶喪失になればワンチャンあるかも。
私の場合
私はなぜか陽キャではないかと思われてしまっているが、多分オフ会しまくっているのが原因ではないかと。自分自身でなら反応したらなんとか会話出来る人間なので、陰キャだと思っている。(この某コミュニティーの主催者にもオフ会たくさんしているから友達多いとか言われる始末)
某コミュニティー(スラム)について
集団でみると、文字でコミニケーションしたり、なにかについて議論したり、定義に拘ったりする傾向が強いので、陰キャではないかと思ってる。陰キャは物理的なコミュニュケーションより、文字コミニケーションが得意な傾向が強い様に思われる。
千葉雅也著「勉強の哲学」読んで
話が変わるが、この前に某スラム民から、千葉雅也氏の「勉強の哲学」を勧められた。
こちらの本を読んだら、「ノリ」という概念について明確に言語化していたので紹介したいと思う。陽キャと陰キャの理解を深める為にも、良いのではないかと思うので。
まず、この「勉強の哲学」という本について
⚪︎「勉強とは何か?」「なぜ、勉強した方がよいのか?」からはじまり、最終的に「陰キャは最高であり皆んな、陰キャに成ろう❗️」と声高らかに扇動している本である。
この本では、ノリとは「周りの環境に適応や従順」の様な意味で捉えていた。社会やなんらかのコミュニティーや交友関係などに対して疑問を持たずに適応出来ればノリが良いことになるらしい。
しかし、周りの環境に合わせてしまうとノリが良い状態になっても逆に表面的な人間になってしまう可能性が高くなるらしい。だから、周りの環境に合わせずに自分の好きな事を深めていけば、それは時代や文化などの垣根を越える高い価値になり、他者を惹きつけてやまないものになる可能性が出てくると本書では述べている。(私の意訳)
この「勉強の哲学」を読んで、私がスラムではじめた事
自分の部屋で、誰も興味がなくスタンプさえ誰も押してくれない、趣味の歴史について書きまくる。(どんな風に書きまくったのかについては、下記画像参照)
理由、周りの環境に従順せず独自のノリを深めていけば、勉強の哲学で述べられているような深い価値につながっていくのではないかと思ったので実践してみた。もしかしたら。その深い価値がこのコミュニティーの初期で議論されていて妖怪というものかもしれない。
最後に
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三ツ星スラム/プロ奢スラムとは、日本のツイッタラープロ奢さんの読書コミュニティ。興味がある人いれば、下記参照ください。
プロ奢さんについては、下記書籍参照
謝辞
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