『自分が居るべきところに居るといふ実感』

さて、この続きを書きます。ようやくw

居場所論のまとめ。

先月下旬、サードプレイスに関するトークイベントを聴きに行ったこともきっかけで、自分の中で居場所論をこねくり回して考えていた。

1st家庭・家 2nd学校・職場 3rdそれ以外

うーん、、、なんかこの区分けにしっくりこない。一旦枠組みを取っ払ってしまったらどうだろうか、ということで、各集団の“名称”ではなく“機能”に着目してみた。

①最初の文化を与えられた場所、生まれたところ、育ったところ。多くの人は家庭、地域、国など。→選べなかったもの。

②興味を広げられる場所、能力を発見し培える場所。多くの人は学校。

って考えたところで「じゃあ職場は?」となり行き詰まりが生じはじめたが、数字を増やして続けます。

③能力を発揮できる場所。職場、趣味、どこでも。

と、ここまで書いてきて、「そもそもこの区分けに何の意味があるのだろう?」と思い始めてきた(得意のそもそも論w)。
そう、それこそ自分がモヤモヤしていたことで、サードプレイスとか新しい定義のように言われてますけど、それってずーーーっと昔から、名前なんてついてなくても、身近にあったんじゃないのかなぁと。

ここ数十年のごく短い期間において、資本主義システムに人間を合わせた結果、効率的な経済生活ということが社会的なインセンティブになり始める。
(人間が豊かになるための資本主義システムではなく、資本主義システムを豊かにするための人間が働くという逆転??このへんまだ考えが浅いので考える余地があるのだが)

「プライベート」と「仕事」を分けた方が効率が良くなってそれで経済成長して成功してきた。
(日本において高度成長期?戦前もそういうの時があったのかは勉強不足で知らないが)

日常に溶け込みすぎてふわっと存在していた場所がいつの間にかなくなる

多くの人「ん?なんか生きづらい…??」

虚無感、空虚感、孤立感・・・・

家庭でも職場でもない第3の場所!サードプレイス!

…的な感じだろうけど、失ってはじめて気づくこれ。
 → 日常に溶け込みすぎてふわっと存在していた場所

これこそ今さら改めて名づけられている“サードプレイス”ではないのか。
なんなら、1,2,3と明確に区分けできるものはなく、家庭も働く場所も学ぶ場所も文化的な活動をする場所も哲学する場所も明確な境界などない。すべてが相関し一部で重なり合ってるような場所。むしろあらゆる場所がそういう場所説。

すべての場所の根底に自分も自分以外の人間も存在する。

存在するのは、
今生きている人だけでなく、亡くなった人、遠くに住んでいる人、今生きているこの場所に生きてきた過去の人たち…

そんなことを1月末につらつらと考えていた時に、たまたま読んでいた福田恆存「保守とは何か」(浜崎洋介編)のウラスジ(タモリ倶楽部的命名)にこんなことが書いてあった。

「自分が居るべきところに居るといふ実感」、その宿命感だけが人生を支えている――――

!!!

これじゃね!? 自分にとっての居場所、どういう居場所が足りないのだろうかという問いにはこれじゃね??すべての居場所でその実感度合いは同じではなくて、その宿命感がより強い場所にいたいという希望。
今は弱い場所しかない感じ。


さて、ちょっと話は変わるが、先日東京・上野でやってた「出雲と大和」展、「ミイラ」展に行ってきました。ゆるふわに歴史好きなんで。
で、それを見て思ったことはまあここでは書かないのですが、たまたま見た国立科学博物館の常設展の方、日本館を見てきました。自分は小学校の頃古代文明、人類、恐竜とかの学習系漫画を読んでたのでこれ系が好きなんです。フタバスズキリュウとか胸アツで展示見て泣きそうになりましたもんw(見に行ったの初めてではないような気がするが)

で、そこで日本人の始まりエリアで見た展示が印象的で。

過去日本列島にどのくらいの日本人が住んできたか。どうやら5億人以上らしいのだが、、、なんかその概念すごくないですか?
今の日本人の人口が1億何人でってのは知ってるけど、延べ人数って概念無かったわ…でそれから「自分もその5億人の日本人のうちの一人であって、連綿と続いてきた日本人のうちの一人なのか…」ってことを認識して。

最近考えている文化でヒトは進化したってこと、文化の中でしか人は生きられない、ってこととかがひとつにつながりそうな感覚を覚えながら各展示を見ていたわけ。

ひとりで生まれてひとりで死んでいくようで、連綿と続く人々の生き方の中に自分が組み込まれている。

意外と、先述した“選べなかったもの”が自分に根付いてることって無視できないし、それを否定したり、卑下したり、ましてや他人他国と比べて優越感や劣等感を感じる必要のないもの。生き方そのもの。

親子とかとういう直接的な血縁関係が無くても、文化として、生き方として、人々の営みの中に自分が生きているという感覚、これって大事なんじゃないかな、なんかそんなことを考えた。

以上、まとまりのない文章となりましたが、ここまでお付き合いくださりありがとうございました。




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移行前のキムラ
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