令和二年八月・思考の断片 -宿命-
◆◆◆
バンドでコピーした曲のみが入った再生リストがある。なんとなく再生してみた。「空も飛べるはず」でちょっと泣く。その後も再生リストを聴いていた。
聴いてたら、ひと月ぶり(もしや数か月かもしれない)くらいにベースを手に取っていた。
型にはまる安心感というのは、このことかもしれない。
くっそ下手くそなんだが、曲のグルーヴを感じたい、混ざりたい、合一したい、そんな気持ちはバンドを始めた当初からずっと変わっていない。
テクニカルなことは全くできないし、細かいことはできないけれど、全体のバランスとかそういうのが気になってしまう。
全体。バランス。美しさ。
それは私の生き方からは切り離せない価値観なのだ。
目の前のことをパッと処理することよりも、全体の調和、美しさが大事。
◆◆◆
仕事で参加する研修の予習をしていた。
読んでおいた方がいい資料は用意されていた。が、私はそこからいくつかのキーワードを抽出し、ネットで検索して見つけた資料を読んでいた。
◆
在る業務を前任者から引継いだ。
事前にA4で2ページ程度にまとめられていた資料が渡され、概要は把握しできるようになっていた。転職してまだ3か月程度しか経っていない私にはその内容ですらふわっとしか把握できない。
しかしわたしはその業務に関するあれこれがごそっと入ってるフォルダの中身を満遍なく眺めていた。面白かった。事細かにいちいち内容を把握したわけではないが、「過去にいろいろあったんだな」という経緯がわかるだけで、わたしは業務に対して真面目に取り組む準備ができる。
過去のやり取り、経緯、そういうのを知った方が、私は目の前の仕事へのやる気と対応力が高まる。
そんな実感を得た。そういう面倒くさい奴なのだ。
◆
例えば、「試験はこのテキストから出ます」という場面。
普通はそのテキストをしっかり読み込んだら試験で良い点数を取ることはできる。できるし、それが一番効率が良いとされる。
でも私はテキストに書いてあることをさらに掘ってしまう。
テキストに100書いてあって、試験にはその100の中から40が出る。40が絶対に100の中からしか出ないのであればテキストだけ見ていればいいはず。しかし私は、テキスト以外に100の情報を得、テキストと併せて合計200の情報に触れてしまう。
私は試験に通ることに特化した勉強ができない。200を知って、自由自在に操れる10の情報が好きなのだ。その10は、必ずしも200の中に純粋に入っているものではないかもしれない。200のことを考えているうちにいくつかの知見が組み合わさったものかもしれない。
能率的ではないと思う。試験では点数取れないだろうし、瞬発力のある回答はできないと思う。そういうのは私に期待しないでほしい。
自分でもどうしようもない力によって、全体のことを考えてしまうのだ。
全体のバランス。美しさ。
◆
福田恆存は、言葉に支えられた“演戯”という人目にさらされた状態こそが真の自己批評の場であると言っていた(まだ読み込んでいないので、今後解釈が変わるかもしれない)。
自分に自分を批評させたのでは、批評している自分がいつまで経っても批評されないからである。
言葉の秩序に、型に、鎮める。整えられた言葉に、その人の生き方が現れる。
言葉のリズム。
最近福田恆存に関する論文を読んでいた。そこに、このような言葉が書かれていた。
芸術の一分野、音楽を例にすると分かりやすい。 作曲家の頭に描かれたリズムは譜面に表しても直ぐ に特別な価値はない。演奏され「音」となることに より聴衆に感動を与えることができる。 演劇においても同じことが言える。シナリオに基 づき俳優等が演じることにより観客はカタルシスを 起こす。「音」にあたるのが「せりふ」である。
村永次郎 『福田恆存における批判精神と自我の構造 ―近代化の問題めぐって―(4)』日本大学大学院総合社会情報研究科紀要 No.12, 199-207 (2011)
一晩寝て起きてすぐに私の頭にひらめいた。
これはバンド演奏におけるいわゆるグルーヴというやつではないか?
私がくっそ下手くそなくせに一丁前に意識していたグルーヴ。福田恆存は、演劇という世界でグルーヴを追求していたのか…?
だとするならば、福田が演戯にこだわった感覚が私にも少しわかるような気がする。おそらくバンドやる人、特にベースをやる人にとってグルーヴは一度は考えるテーマだろうし、プロでさえも一生追求し続けるようなものだと思う。そういうものだ。
どんなに楽譜が良くても、メトロノーム的にはきちんと合っていても、出来損ないの演奏がある。疾走感のある前ノリの曲なのに、2,4で鳴ってるスネアを意識しすぎて後ろノリでベースを弾いてしまっては、演じ損ないである。
演戯において、発する言葉は身振り手振りを伴うものである。
言葉を発することで、体が動かなければならない。
例えば、今にも人を刺そうとしている人物が長ったらしい説明じみたセリフを言うだろうか?人を刺す時はその動作を勢いづけるような、言葉にもならないようなそんな発声が伴うのではないか。(例が殺伐w)
何でもありな自由の中には、かえって活き物が住みつかない。
ひとつの演技、ひとつのライブ、ひとつのステージという決められた枠を意識することで、その中で自分の役を演じ切ること。
これが活き物の自由である。なんでも自由に選べることを欲してはいない。
私がここにいて一定の役割を演じないと時が進まないようなそういう実感が欲しいのだ。それが宿命というものである。
------
影響を受けまくっている図書
・福田恆存(浜崎洋介編) 『保守とは何か』
・福田恆存(浜崎洋介編) 『人間とは何か』
・福田恆存 『人間・この劇的なるもの』
・福田恆存 『私の幸福論』