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布教することが怖い

『布教』が怖い。
布教されるのは良い。布教するのが怖い。

あ、この場合の布教というのは元々の――宗教を広めるという意味ではなくオタク用語です。
好きな作品を周囲にお勧めする行為を強めに表現したもの。

私はなぜか昔からそういう怖れに囚われています。
なのでここでひとつ、恐怖の成分分析をしてみようかと。


布教のどこが怖いの?

否定されること

怖いこと一つ目、否定されることが怖い

お勧めした物事そのものの良さを否定されること、ですね。
私以外のコンテンツは私ではないし、好みや価値観は人それぞれ。
なのでこれで私が傷つく道理は全くもって存在しないはず……なのですが。

この怖さは更に二つに分解されます。
まず一つ目の要素。私が好み、愛すコンテンツは私の価値観に結び付いていたり、私の精神を支える――あるいは形成する一助になっていたりする。
それを否定されることは私の心や感性そのものへの否定に感じてしまう。相手にそのつもりがなくても、私の認知が勝手にそういう方向へ拡大しちゃう。

そして二つ目の要素。好きなコンテンツが否定されるところ、そのものが見たくない
私のアイデンティティ構成への寄与とか、そういうのは関係ない。私はそもそも『コンテンツへの否定的意見』は見たくない性質なんですよ。
誹謗中傷でもない感想なら、もちろんどう発言しようと自由です。全然悪くない。
私としてもSNSなどを見て回る上で、何らかのコンテンツへの悪意・害意のない否定的意見に行き当たることはあります。
そういうこともある。発信者も間違っていない。反論バトルを仕掛けたりもしない。
ただ私が少し『ちくり』と感じるだけ。
僅かな量であっても『ちくり』に遭遇する立ち回りを減らしたいと、そんな自己保身に満ちた思いを抱いてしまうんです。

この一つ目の恐怖に関しては私が覚悟の脆弱さゆえに勝手にわめいているだけで、なかなかに表層的な反応かなと思います。
より根幹に近い恐怖は次以降に挙げるものだと考えます。

迷惑になること

怖いこと二つ目、相手の迷惑になることが怖い

あなたはこの世に渦巻く事象に平等に興味を抱けますか?
さすがに無理がありますよね?
何を魅力に感じ、何を知りたいと欲するか。その欲求をそそり、満たすものは何か。
みんなそれぞれ違います。
だから。お勧めされたものに微塵も興味を持てないこと、ありますよね?
それをやっちゃうのが私は怖い。
相手が興味の持てないお勧めによって、相手のコンテンツへの感情をゼロからマイナス寄りに傾かせることが怖いんです。
ウザい、と。
結局は先述の一つ目の恐怖にも繋がりますし、後でお話する三つ目の恐怖とも接続される怖れです。

ちなみに。
私も実際、お勧めされたもの、私向けにはっきりお勧めされたわけではないけれど友人が熱くハマっているコンテンツに興味を持てないこと、たくさんあります。
でも。私は他人の『好き!!!』という気持ちを浴びるだけでも心地良くなれるので、私にとっては興味の持てないコンテンツをお勧めされるというのは全然マイナスな出来事ではありません。
私が先方のようにハマれないことで不満を噴出されたり、更にゴリゴリゴリゴリ推されたら嫌気はさすかもしれませんが……幸いにしてそのような反応をされたことはありませんし、仮にそういうことが起きたとしてもコンテンツそのものは何も悪くありません(個人的に、それは当該コンテンツへのマイナス評価には繋がらない)。

人によるとはいえ、節度や出力さえ守ればそうウザがられる行為でもないのかもしれませんが……でも抵抗感が生まれてしまうのです。

間違った出会い方をさせちゃうこと

怖いこと三つ目、出会わせ方を間違えることが怖い
多分これが私にとって一番の恐怖です。
『その人は本来、そのコンテンツを好きになる余地があったはずなのに、私のお勧め方法が不適切なために関心を失わせてしまった』
となるのを避けたいのです。

これは自分でも原因が解らない……それこそ前世のカルマなんじゃないかとすら思うのですが、私は『濡れ衣』を異常に怖れ、哀しみ、憤りを覚える傾向があります。
人間とコンテンツのご縁にとっての濡れ衣とは何か。
それは『そのコンテンツの内容が肌に合わなかったこと以外で、その作品に嫌な印象を持ってしまうこと』かなぁと思います。
ネット界だとたまに見かけるじゃないですか。
未見のコンテンツだけど、その界隈のゴタゴタが厄介そうだから近寄らないでおこう……というタイプのご意見。
一個人に界隈とかファンコミュニティはどうこうできないし、せめて私個人は振る舞いを律し、推しコンテンツに泥を塗らないようにする……という心掛けしかできません。それにこの記事は『個人から個人への布教』の話なので、界隈がどうこうというパターンは置いておきますね。

まぁ、つまり。
自分の不適切な布教により、他人が特定コンテンツへ向ける関心や好意の値を下げてしまうことを恐れているのですよ……。

そもそも布教ってする必要ある?

ここまでつらつらとネガティブな言い訳を開陳してきましたが……。
この懸念、湧いてくること自体は特に珍しいものではない気がするんですよ。
これらのリスクを鑑みた上で、そうならないように、個人に刺さるプレゼン方法を検討する。
お勧めを厭わない方は、そういった行為をするんとできる、あるいは覚悟して練り上げていくのではないのですかね。
思いやり、洞察力の見せどころです。

では、私はそうしないのはなぜか。
私が個人的にハマっているコンテンツを、既に仲良くしている方と必ずしも共有しなくても良い』と考えているからです。

私は自分一人で全ての妄想や萌えを永久機関と為し自己完結できるほど達観した存在ではありません。
だから他人と好きな物事を共有できると温かな幸せを感じるし、元々仲がいい方と同じものにハマって語り合えたらとっても嬉しい、楽しい。
でも。相手方に『それを好きになる適性と巡り合わせがあってこそ』です。
逆に言えば「この人はこういうのも好きかも?」と思えるものがあれば、軽くお勧めしたりはします。
しかし、熱量――ハメる覚悟を持ってのプレゼンは基本しないですね。
人は星辰正しき時、ハマるべきものにハマるので。
お互い好きに趣味活した結果、好き! の領域が重なったものを共有して楽しめばいいよね、と思うんです。

今個人的にHOTなコンテンツをHOTに分かち合いたければ、既にHOTにハマっている方を見つければいいので……。
私は深刻なコミュ障ですし、身軽に次々お友達を作れるような器量はありませんが、SNSでHOTなアカウントをフォローすることはできます。
交流を積極的に試みる人間ではないので『界隈』に入ることはできないのですが……私が好きなものに関する熱意や愛あふれる投稿を見るだけでも楽しい気持ちになれます。
更に私の萌え語り、ましてや作品に「いいね」がついたとあれば……それだけでもう、立派な温もりある交流です。

そんな私ができる、やりたい布教とは

ところで。
最強の布教は、自分が楽しんでいる姿を見せること
ネット界のどこかでたまたま見かけたご意見ですが、私は強く賛同できるなと感じました。

私は傍から見て、常に熱量高く萌え転がっているというほどの振る舞いはしていないのかな? と自分では思っています。
ですが、毎日毎時間ではなくても。自分なりの温度と表現で、好きなコンテンツは好き! と表明しています。
このnoteアカウントにもそんな記事が多少溜まってきています。
それが誰かの目に留まり、更に私の好きなコンテンツ自体に興味を持ってくれたのなら――とてもありがたいです。
積極的に布教しないと言っても、私はこの世に存在する『好き』な気持ちの総量は多ければ多いほどいい、とは本気で思っています。
なので、その一助になれてたとしたら純粋に嬉しいんですね。

あと、卑怯な感性で恐縮ですが……。
noteやSNSに書き置きした文章を自由意思で読んでいただく、というのは私にとって非常に心理的負荷が少ない布教法です。
自発的に読んでいただいた時点で、少なくとも興味のない(持てる見込みの薄い)方の時間を能動的に奪う行為ではなくなるからです。
時間なり興味がなければ読まなければいい(途中でやめればいい)のですからね!

ここまで書いた三千字強の文章をまとめると「布教に伴う他人への影響に責任を持ちたくない」となるのかも。
ひっどすぎる……。

楽しく布教できたシチュエーション

最後に余談。
私が先に挙げた恐怖心なしで、それどころか楽しくお勧めできたパターンについて。
それは『お勧めの漫画を選んでほしい』というシチュエーションです。
相手は職場で仲良くしていただいた漫画好きな方であったり、ママの漫画好きなママ友であったりします。
相手からの合意があること。そして何となくであっても好みの方向性が見えること。ここが必要なポイントですね。
数種類の作品の1巻、あるいは1~2巻の範囲をまとめてお渡しし、読んでいただく。そして興味をそそられた作品を確認し、その続刊を貸す――というやり方でした。
選定失敗した(お相手に刺さらなかった)場合でも、後悔や無念さを感じたりはしませんでした。「ああ、これは好まないのね」と反省するだけ。
多分、漫画本編そのものを見て判断してもらった……つまり、完全にお相手と作品の相性の問題であり、私のプレゼン力の介在する余地がなかった――濡れ衣を着せたと言える状況ではなかったから気が楽なのかな、と思います。
そして、見事刺さった時は――達成感でにんまりと嫌らしい笑みが浮かびました。
成功した。ニーズに応えられた。縁結びができた。そういう喜び。
漫画を乱読してきて良かったなぁ、としみじみ思えましたね。

お勧めするにも、気持ちを軽やかに、深刻になる必要のないところまで深刻にならずに、いい意味でお気楽にやることが相手にも自分にも重圧を掛けずに済む道なのでしょうね。

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