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資治通鑑卷一百八十七 唐紀四① +Applied Methods on A1111


武徳二年、太原に挙兵し、電撃戦を以て長安と関中(函谷関の西、ほぼ戦国期の旧秦王国領、或いは楚漢戦争時の漢王国領に相当する)を制し、天下統一に向けて各地の群雄達から頭一つ抜け出した…筈の唐が、建国以来最大の危機を迎えました。

斉王李元吉と裴寂の失態により、唐は并州…黄河東岸の領域の大半を失陥してしまった事になります。

更に、劉武周だけでなく、竇建德と王世充も唐に対して攻勢を強め、後に李薬師(李靖)と双璧と謳われることになる若き名将李懋功(李勣)も竇建德に対して敗北、降伏を余儀なくされてしまいます。

江南の地では、これまた双璧の一方、李薬師が蕭銑に対して苦戦し、危うく李淵に処刑されかかったりしています。

元々、李淵は薬師に対しては怨恨がある訳ですが、
(李淵の挙兵直後、薬師は李淵の叛逆を煬帝に通報しようとして唐軍に捕らえられたが、その際に李淵を散々罵倒している。危うく殺されかかった処を李世民に救われた)

後に西漢の韓信と並び、中国史上最高の名将は何れか...とさえ称される薬師も、この時点ではまだ真価を発揮できていません。

この建国以来最大の危機に、若き英傑秦王李世民が立ち上がります。

この時、彼が率いた兵は総数僅か三万であり、各戦線で敗北した唐には、最早それしか戦力が残っていなかったことになります。

この後、世民はわずか二年足らずで、江南の蕭銑を除き、劉武周、竇建德、王世充、唐に敵対しうる全ての群雄を打倒することに成功し、唐の天下統一をほぼ決定づけますが…中国史上その短期間で、それほどの軍事的成功を収めた人間は空前絶後です。
(楚漢戦争時の韓信ですら、そこまでではない)

しかもこの時、世民は二十歳を過ぎたばかりの若さです…「天才」という人間は確かに存在する…と思うしかありません。

この時点で唐に僅かながらの余力が生じていたとすれば、それは西の脅威である李軌を殺し、西涼を平定していた事です。

李世民が派手すぎるので目立ちませんが、東西南北四方敵ばかり…という情勢にあって、唐はまず西の脅威を取り除いたことになります。

そして、この時点で既に、後に玄武門の変に繋がることになる、皇太子李建成との確執が表面化しつつありました。

この兄弟間の悲劇は、後世どのように考えても不可避であったと思うしかありません。
(実は、この種の兄弟間対立と破局を事前に回避した例は東漢初期にある)

世民が長男に生まれていれば何の問題もなかった訳ですが…彼は、次男です。これは物理的にどうしようもない事で、その次男がよりにもよって不世出の天才として生まれてしまった…処に、この兄弟の悲劇がありました。

高祖神堯大聖光孝皇帝中之上武德二年(己卯,公元六一九年)

李世民、劉武周軍と対決す

十一月己卯、劉武周が浩州を攻めた。

秦王李世民は龍門から兵を引き、凍った黄河を渡って柏壁に布陣し、宋金剛と対峙した。当時、河東の州県は略奪され尽くし、穀物倉は空であり、人々の心は動揺して城砦に逃げ込んでいた。徴税もほとんど成果がなく、軍中の食料も不足していた。

李世民は布告を発し、民衆を説得した。彼が指揮官として来たと聞くと、民衆はこぞって帰順し、近くから遠くまで次々と集まってきた。そして少しずつ食糧を徴収し、軍の食料を充足させた。こうして兵士を休ませ、馬に飼葉を与えつつ、小部隊には隙をついて略奪を行わせた。一方で本隊は防備を固めて戦わなかったため、敵軍の勢力は日ごとに弱まった。

あるとき、李世民は軽騎兵を率いて敵の様子を探るため出陣した。しかし、同行した騎兵は四散し、彼は甲士一人と共に丘の上で寝てしまった。その間に敵兵が四方から迫ってきたが、初めは気付かなかった。偶然にも、蛇が鼠を追いかける際に甲士の顔に触れたことで、甲士は驚いて目を覚ました。甲士が急いで李世民に知らせ、共に馬に乗り逃げたが、百余歩進んだところで敵に追いつかれた。李世民は大羽の矢で敵の猛将を射殺し、敵兵はようやく退却した。

李世勣は唐に帰順しようと考えたが、自分の父に災いが及ぶことを恐れ、郭孝恪に相談した。郭孝恪は次のように言った。

「我々は竇建徳に仕え始めたばかりで、下手に動けば疑われる。まず功績を立てて信頼を得てから計画すべきだ。」

李世勣はこの助言に従い、王世充の拠点である獲嘉を襲撃してこれを破り、多くの捕虜と戦利品を竇建徳に献上した。これにより竇建徳は彼を信頼するようになった。

漳南出身の劉黒闥は若くして勇猛、かつ智謀にも長けており、竇建徳と親しくしていた。のちに群盗となり、郝孝徳、李密、王世充に仕えた。王世充は彼を騎兵将軍に任じたが、劉黒闥は王世充の行動を陰で嘲笑していた。

王世充は劉黒闥に新郷を守らせたが、李世勣に攻撃され捕虜となった。その後、竇建徳に引き渡され、竇建徳は彼を将軍に任じ、「漢東公」の爵位を与えた。劉黒闥は奇襲部隊を率いて敵地を襲撃したり、偵察を行ったりして多くの成果を挙げた。

十二月庚申、皇帝は華山で狩猟を行った。

「門神」尉遲敬德

於筠は永安王孝基に対して、「速やかに呂崇茂を攻撃すべきだ」と進言した。一方、独孤懷恩は、まず攻城用の道具を整え、その後に進軍するよう提案し、孝基はこれに従った。しかし、呂崇茂は宋金剛に救援を求めた。宋金剛は将軍の尉遲敬德と尋相に兵を率いさせ、夏県に急行させた。

孝基の軍は前後から敵の攻撃を受けて大敗し、孝基、懷恩、於筠、唐儉、行軍総管の劉世讓らが捕虜となった。尉遅敬德の諱は「恭」で後世、主に字で呼ばれた。(同じ「門神」秦叔宝も同様。同時代では房玄齢も同じ。歴史書では普通、姓名呼び捨て)

唐の高祖は裴寂を召還し、敗戦を責めて官吏に下すも、後に赦免してさらに寵愛を深めた。

尉遅敬德と尋相は澮州に帰還しようとしていたが、秦王李世民は兵部尚書の殷開山や総管の秦叔宝らを派遣し、美良川で待ち伏せ、大いに破った。斬首は2,000余りにのぼった。

その後、尉遅敬德と尋相は精鋭騎兵を率いて密かに王行本を蒲坂で救援しようとした。これを察知した李世民は、自ら歩兵と騎兵合わせて3,000を率い、間道から夜間に安邑へ急行した。そして迎撃して大勝を収めたが、尉遅敬徳と尋相は辛うじて逃亡し、部下はすべて捕虜となった。李世民は再び柏壁へ戻った。

諸将が宋金剛と即時戦うことを求めたが、李世民は次のように述べた。
「宋金剛の軍は遠く侵攻してきており、精兵と猛将がここに集結している。劉武周は太原に拠り、宋金剛を防衛の盾としている。金剛の軍には蓄積がなく、略奪を資源としており、速戦を求めている。我々は陣を閉じて鋭気を養い、その勢いを挫きつつ、汾や隰に兵を分けて敵の中心部を攻めるべきだ。彼らは糧食が尽き、策が尽きれば、必ず撤退を余儀なくされる。この機会を待つべきで、急いで戦うべきではない。」

永安壯王孝基は逃げ帰ることを計画したが、劉武周によって殺された。

李世勣は再び使者を送り、竇建德に次のように進言した。
「曹州と戴州は戸数も人口も豊かで、孟海公がそれを占有していますが、鄭とは表向きは同盟関係でありながら内部では対立しています。大軍を率いてこれに迫れば、短期間で占領できるでしょう。一度孟海公を討伐すれば、それを拠点として徐州や兗州に進出でき、河南全域を戦わずして平定することも可能です。」

竇建德はこれに同意し、自ら河南を征服する意向を示した。まずは行臺の曹旦らに5万の兵を率いさせて黄河を渡らせ、李世勣は3,000の兵を率いてこれに合流した。

高祖神堯大聖光孝皇帝中之上武德三年(庚辰,公元六二零年)

李世勣、唐帰順の為の謀を巡らす

春、正月、将軍秦武通が蒲板において王行本を攻めた。
王行本は出撃して戦ったが敗北し、糧食が尽き援軍も絶えたため、包囲を突破して脱出しようとしたが、従う者は誰もいなかった。戊寅、門を開いて降伏した。辛巳、唐の高祖は蒲州を訪れ、王行本を処刑した。秦王李世民は軽騎で蒲州に赴き、そこで高祖に拝謁した。宋金剛は絳州を包囲したが、癸巳、高祖は長安に帰還した。

李世勣は竇建德が河南に到着するのを待ち伏せ、その陣営を奇襲して殺害し、父(徐蓋)とその領地を唐に帰属させる計画を立てた。しかし、建德の妻が出産のため遅れており、到着が長引いていた。

曹旦は竇建德の妻の兄であり、河南に駐留して多くの侵略行為を行っていたため、諸賊の従属者たちは皆これを恨んでいた。賊の頭領で魏郡の李文相は「李商胡」と称し、5000人以上の兵を率いて孟津中潬を拠点としていた。彼の母霍氏は騎射を得意とし、自ら「霍総管」と名乗っていた。

李世勣は李商胡と兄弟の契りを結び、霍氏に挨拶に行った。霍氏は涙ながらに世勣に言った。
「竇氏は無道であり、なぜこれに仕える必要があるのですか?」
世勣は答えた。
「義母上、ご心配なく。一月もすれば必ず奴を殺し、唐に帰順します。」
世勣が去ると、霍氏は商胡に言った。
「東海公(李世勣)は我々とともに竇氏を討つと約束しましたが、時間がかかれば変事が起こる可能性があります。待つ必要はありません。速やかに行動を起こすべきです。」

その夜、李商胡は曹旦の部将23人を召し出して酒宴を開き、全員を殺害した。また、別の部将である高雅賢と阮君明は河北に留まっていたため、李商胡は大舟4隻を派遣し、河北の兵300人を渡河させたが、中流に達した時点で全員を殺害した。ある獣医だけが泳いで南岸に逃れ、曹旦に知らせたため、曹旦は厳重な警戒態勢を敷いた。

商胡は計画を実行した後、初めて使者を派遣して李世勣に知らせた。李世勣は曹旦と陣営を連ねていたが、郭孝恪が曹旦を奇襲するよう勧めた。世勣は決断できずにいたが、曹旦が既に警戒していると聞き、郭孝恪とともに数十騎を率いて唐に投降した。

李商胡は精兵2000を率いて北へ進軍し、阮君明を奇襲して撃破した。高雅賢は残兵をまとめて退却し、商胡はこれを追ったが捕らえることができず、撤退した。

竇建德の家臣たちは李世勣の父李蓋を処刑するよう建徳に進言したが、建徳は答えた。
「世勣は唐の臣下であり、私に捕らえられた身であっても故国を忘れなかった。これこそ忠臣である。彼の父に何の罪があろうか?」
こうして李蓋を赦免した。

甲午、李世勣と郭孝恪は長安に到着した。曹旦はその後、濟州を攻略し、洺州に戻った。

二月、庚子、唐の高祖は華陰を訪れた。

劉武周は兵を遣わして潞州を襲い、長子と壺関を陥落させた。潞州の刺史郭子武はこれを防ぐことができず、皇帝は河東の王行敏を将軍として派遣し、これを援助させた。行敏は子武と意見が合わず、誰かが「子武は反乱を企てている」と告げると、行敏は子武を斬り、その首を晒して威圧した。乙巳の日、武周は再び兵を送って潞州を襲撃したが、行敏がこれを打ち破った。

壬子の日、開州の蛮酋である冉肇則が通州を陥落させた。

甲寅の日、将軍桑顕和らを派遣し、夏県において呂崇茂を攻撃させた。

独孤懐恩、誅殺さる

初め、工部尚書独孤懐恩は蒲板を攻めていたが、長期間攻略できず、死傷者が多く出たため、皇帝は何度も敕書で叱責した。懐恩はこれにより不満を抱くようになった。あるとき皇帝が冗談で懐恩に「姑之子(煬帝と李淵。二人の母は共に独孤氏の出身)は既に皇帝となり、次は舅之子が皇帝になる番か?」と言ったところ、懐恩はこれを自慢気に受け止め、時には腕を握りしめて「わが家は女ばかりが栄えるわけではない」と言うほどであった。そして配下の元君宝と共謀し、反乱を企てた。

その後、懐恩と君宝が唐儉とともに尉遅敬徳に捕えられた際、君宝は儉に「独孤尚書は大事を成そうとしていたが、もし早く決断していれば、このような辱めを受けることはなかっただろう」と語った。秦王世民が敬徳を美良川で敗ると、懐恩は逃げ帰ったが、皇帝は再び彼に兵を率いて蒲板を攻撃するよう命じた。君宝はまた儉に「独孤尚書はついに危難を脱して蒲板に戻った。まさに王者は死なないというべきだ」と語った。

儉は懐恩が反乱計画を成し遂げるのを恐れ、尉遅敬徳に働きかけ、劉世譲を帰還させて唐と連携させることを提案し、敬徳もこれに従った。そして懐恩の反乱の証拠を報告した。当時、王行本はすでに降伏しており、懐恩はその城に立て籠もっていた。皇帝は河を渡って懐恩の陣営に向かうところだったが、ちょうど舟に乗り込んだところで世譲が到着した。皇帝は大いに驚き、「私は生き延びることができた。これも天の助けではないか!」と言った。

皇帝は懐恩を召還するよう命じた。懐恩はまだ計画が露見しているとは知らず、小舟で急いで到着したが、その場で捕らえられて役人に引き渡された。そして一味を捕らえる命令が下された。甲寅の日、懐恩とその一味が処刑された。

竇建德は李商胡を攻撃して殺害した。建德は洺州に至り、農業と養蚕を奨励した。これにより、境内は盗賊がいなくなり、商人たちは野宿しても安全であった。

突厥の処羅可汗は楊政道(隋の楊暕の子)を迎え、隋王として立てた。中国本土から北に連れて行かれた士民は、すべて処羅が政道に配属し、軍勢は1万人に達した。官職を隋の制度に倣って整備し、定襄に拠点を置いた。

三月、乙丑の日、劉武周はその将である張万歳を派遣し、浩州を襲撃したが、李仲文がこれを打ち破り、数千人を捕虜または討伐した。

この時、官名の改正が行われ、「納言」を「侍中」、「内史令」を「中書令」、「給事郎」を「給事中」に改めた。

甲戌の日、内史侍郎の卦徳彝が中書令に任じられた。

王世充の将帥や州県で降伏してくる者が、日々次々と現れた。これに対して、世充は法を厳しくし、たった一人が逃亡・叛逆すれば、家族全員を年齢や性別を問わず処刑した。また、父子や兄弟、夫婦で互いに密告すれば処罰を免れることを許した。さらに、5家族を1つの保とし、その中の1家族が逃亡した場合、他の4家族が気づかなかったとしても全員処刑した。これにより処刑される人は増える一方で、逃亡者もますます多くなった。さらに、薪を採る人々ですら外出や帰宅の際に人数制限を設けられ、公私ともに苦しみ、人々は生きる希望を失った。

また、世充は宮城を巨大な監獄とし、自らの疑念の対象となった者を家族ごと拘束し、宮城内に収容した。軍を出陣させる際には、その将軍の家族を宮城に人質として留め置き、宮城内の収容者は常に1万人を下回らず、飢え死にする者が1日数十人に上った。さらに世充は、中央政府の官職を各地の農地管理官に任じ、洛州、鄭州、管州、原州、伊州、殷州、梁州、湊州、嵩州、谷州、懐州、徳州の12州の農地を管理させた。この職務に任命された丞や郎は、天にも昇るように喜んだ。

甲申の日、行軍副総管の張倫が劉武周を浩州で破り、千余人を捕らえ、斬首した。

乙酉の日、西河公の張綸と真郷公の李仲文が軍を率いて石州を包囲したところ、劉季真は恐れて偽降した。朝廷は劉季真を石州総管に任じ、姓を李氏と改めさせ、彭山郡王に封じた。

己丑の日、蛮酋の冉肇則が信州を襲撃したが、趙郡公の李孝恭は戦いに不利であった。そこで李靖が800人の兵を率いて奇襲し、冉肇則を討ち取り、5000人以上を捕虜にした。この日、信州と開州を奪還した。また、李孝恭は蕭銑配下の東平王闍提を討ち取り、これを斬った。

夏4月、丙申の日、皇帝は華山で祭祀を行った。

壬寅の日、皇帝は長安に帰還した。

益州、利州、会州、鄜州、涇州、遂州の6つの総管を益州道行台に属させた。

李世民、劉武周と宋金剛を滅ぼし、猛将尉遅敬徳を得る

劉武周は何度も浩州を攻撃したが、李仲文に撃退され続けた。一方、宋金剛の軍では食料が尽き、丁未の日に宋金剛は北へ逃亡し、秦王の李世民がこれを追撃した。

壬子の日、顕州道行台の楊士林が行台尚書令に任命された。

甲寅の日、秦王李世民に益州道行台尚書令を加えた。

秦王世民は呂州において尋相を追撃し、大いにこれを破った。その勢いに乗じて敗走する敵を追撃し、一昼夜で200余里を進み、数十回の戦闘を繰り広げた。高壁嶺に至った時、総管の劉弘基が馬を止め、諫めて言った。

「大王は賊を破り、ここまで追撃されました。これで功績は十分です。さらに深く敵地に入るのは、命を惜しまぬ行為です。また、兵士たちは飢え疲れています。ここで留まり、陣を固め、兵糧が集まるのを待ってから再び進軍しても遅くはありません。」

これに対し世民は言った。

「金剛は計略が尽きて敗走し、兵士たちの士気はすでに崩れています。この好機を逃せば、敵が態勢を立て直し備えを固めるでしょう。そうなれば再び攻めることは困難です。私は国家に忠を尽くし、身の安全など顧みません!」

こうして世民は馬を鞭打ち進軍を続けた。将兵たちは再び飢えについて言うことを恐れ、ひたすら従った。彼らは雀鼠谷で金剛軍を追撃し、1日に8度戦い、いずれもこれを打ち破り、数万人を捕虜または討ち取った。

夜になると、軍は雀鼠谷の西原に宿営した。世民は2日間何も食べず、3日間甲冑を脱がなかった。軍中にはわずか1匹の羊しかなく、世民はそれを将兵たちと分け合って食した。丙辰の日、陝州総管の于筠が金剛軍から逃れて世民の元に到着した。

世民は軍を引き介休に向かった。金剛軍はまだ2万人の兵を抱えており、戊午の日に西門を出て城を背に陣を布き、その陣形は南北に7里にわたって広がっていた。世民は総管の李世勣らを派遣して戦わせたが、一時的に退却を余儀なくされ、賊に追撃を許した。そこで世民は精鋭騎兵を率いて敵陣の背後を突き、金剛軍を大いに打ち破り、3千の首級を挙げた。金剛は軽騎兵を伴って逃走したが、世民は数十里追撃し、張難堡に至った。

その地では、浩州行軍総管の樊伯通と張徳政が堡を守っていた。世民が兜を脱ぎ顔を見せると、堡内の者たちは歓声を上げ、感激の涙を流した。部下たちは世民が何も食べていないと報告し、粗末な酒と粟飯を差し出した。

尉遅敬徳は残兵を収集して介休を守っていたが、世民は任城王道宗と宇文士及を派遣して説得にあたらせた。敬徳は尋相と共に介休および永安を挙げて降伏した。世民は敬徳の降伏を大いに喜び、彼を右一府統軍に任じ、8千の旧部隊を指揮させ、他の部隊と共に任務にあたらせた。屈突通は敬徳の裏切りを警戒して再三進言したが、世民はこれを聞き入れなかった。

一方、劉武周は金剛の敗北を聞き大いに恐れ、并州を放棄して突厥に逃亡した。金剛も残兵を集めて再起を図ったが、兵士たちは従うことを拒否した。結局、金剛は百騎余りを連れて突厥に逃れた。

世民が晉陽に到着すると、劉武周が任命した楊伏念が城を挙げて降伏した。唐儉は府庫を封印して世民の到着を待ち、劉武周が占領していた州県はすべて唐に帰属した。

その後、金剛は故郷の上谷へ逃れようとしたが、突厥に追われ捕縛され、腰斬に処された。また、嵐州総管の劉六児は宋金剛に従って介休にいたが、世民に捕らえられ斬首された。劉六児の兄である季真は石州を放棄し、劉武周の将である馬邑の高満政に逃げ込んだが、高満政によって殺害された。

武周が南方を侵略しようとした際、内史令の苑君璋が諫言して次のように述べた。
「唐主(李淵)は一州の兵力を挙げ、直ちに長安を制圧し、その進むところ敵なし。これは天命によるもので、人の力ではありません。晋陽より南の道は険しく狭隘であり、軍を深く進めれば後方からの補給が断たれるでしょう。もし戦に進んで敗れるようなことがあれば、どうやって撤退するつもりですか?それよりも北で突厥と同盟を結び、南では唐朝と協力して南面の支配者として孤(王の自称)を称するのが、長期的な策として最善です。」

しかし武周はこれを聞き入れず、苑君璋を朔州の守備に留めた。敗北した後、武周は泣きながら苑君璋に言った。
「君の言葉に従わなかったために、このような状況に陥った。」

その後しばらくして、武周は逃亡して馬邑に戻ろうと計画したが、計画が漏れ、突厥によって殺された。突厥はさらに苑君璋を大行台に任じ、残党を統括させ、郁射設に命じて兵を率いて守備を助けさせた。

庚申の日、懐州総管の黄君漢が王世充の太子である玄応を西済州で攻撃し、大いに打ち破った。また、熊州行軍総管の史万宝が九曲で玄応を迎え撃ち、再びこれを破った。

辛酉の日、王世充は鄧州を陥落させた。

高祖(李淵)は并州が平定されたことを聞き、大いに喜んだ。壬戌の日、群臣を宴に招き、絹布を賜り、群臣に御府へ入り、自ら取り出させた。また唐儉の官位と爵位を回復させ、并州道安撫大使に任命した。更に独孤懐恩の反逆を暴いた功績として、彼の没収された田地や財産を全て唐儉に与えた。

秦王李世民は李仲文を并州に留めて鎮守させた。劉武周はたびたび兵を派遣して侵略を試みたが、李仲文はその度にこれを撃破し、百以上の城堡を陥落させた。朝廷は李仲文に命じ、并州総管の任務を代行させた。

5月、竇建徳が高士興を派遣して幽州で李芸を攻撃させたが、成功せず、籠火城に撤退した。李芸がこれを襲撃し、大いに打ち破り、5,000人以上の首を斬った。竇建徳の大将軍である王伏宝は、その勇略が軍中で群を抜いていたが、他の将軍たちに嫉妬され、謀反の嫌疑を受けた。竇建徳はこれを信じて王伏宝を処刑した。王伏宝は死に際して言った。
「大王はなぜ讒言を信じて、自ら右腕を斬るような真似をするのか!」

李淵、尉遅敬徳の誅殺を図り失敗す

初め、尉遅敬徳は兵を率いて呂崇茂を助け、夏県を守っていた。高祖は密かに使者を送り、呂崇茂の罪を赦して夏州刺史に任命し、尉遅敬徳を謀殺するよう命じた。しかし計画は漏れ、尉遅敬徳は呂崇茂を殺した。その後、尉遅敬徳が去ると、呂崇茂の残党が再び夏県に立てこもり、抵抗を続けた。秦王李世民は晋州から軍を率いて戻り、夏県を攻撃し、壬午の日にこれを殲滅した。

辛卯の日、秦王李世民は長安に到着した。

この月、突厥は阿史那揭多を王世充のもとに送り、千匹の馬を献上し、さらに婚姻を求めた。王世充は宗室の娘を嫁がせ、突厥との交易を行うことを決定した。

六月壬辰、詔を発し、和州総管および東南道行台尚書令である楚王杜伏威を、使持節・江淮以南の諸軍事総管・揚州刺史・東南道行台尚書令・淮南道安撫使に任命した。さらに呉王に封じ、李氏の姓を与えた。また、輔公祏を行台左僕射とし、舒国公に封じた。

丙午、皇子元景を趙王に、元昌を魯王に、元亨を魯王に封じた。

顯州行台尚書令の楊士林は、唐から官位を受けていたが、北では王世充と通じ、南では蕭銑と連携していた。このため、廬江王瑗に命じて、安撫使李弘敏と共に討伐を命じた。しかし、兵はまだ出発しないうちに、長史田瓚が楊士林の排斥を企んでいることを察知した。

甲寅、田瓚は楊士林を殺害し、王世充に降伏した。王世充は田瓚を顯州総管に任命した。

秦王李世民が劉武周を討伐する際、突厥の処羅可汗は弟の步利設を送り、2,000騎を率いて唐を支援させた。劉武周が敗北した後、同月に処羅可汗は晉陽に到着したが、并州総管の李仲文はこれを抑えることができなかった。また、倫特勒を残して数百人を率い、李仲文を助けて守備させると称し、石嶺(山西省)以北に兵を駐屯させて帰還した。

李世民、王世充と対決す

秋七月壬戌、詔を発し、秦王李世民に諸軍を指揮させ、王世充を討伐させた。

陝東道行台の屈突通の二人の息子は洛陽にいた。高祖は屈突通に言った。
「今、卿を東征させたいと思うが、卿の二人の子はどうするのか。」

屈突通は答えた。
「私はかつて捕虜となり、死を覚悟しておりましたが、陛下は私を許し、恩を与えてくださいました。そのとき、私は命の余命を尽くして陛下に忠義を尽くすと誓いました。今、この機会を得て先鋒として働くことができるのであれば、二人の息子など顧みる価値もありません。」

これを聞いた上は感嘆して言った。
「義に殉じる士がここまで忠節を尽くすとは!」

癸亥、突厥が密かに使者を送り、王世充に通じようとしたが、潞州総管李襲譽がこれを待ち伏せして攻撃し、撃破した。捕虜とした牛や羊は万頭に上った。

驃騎大将軍可朱渾定遠は次のように報告した。
「并州総管李仲文は突厥と通じ、洛陽の兵が戦っている間に胡人の騎兵を引き入れ、直ちに長安を攻めようとしています。」

甲戌、皇太子に命じて蒲坂に駐屯し、これに備えさせた。また礼部尚書唐儉を并州に派遣して安撫を行わせ、暂時并州総管府を廃止し、李仲文を召還して朝廷に出仕させた。

壬午、秦王李世民が新安に到着した。

王世充は魏王弘烈を襄陽に、荊王行本を虎牢に、宋王泰を懐州に、斉王世惲を南城に、楚王世偉を宝城に、太子玄応を東城に、漢王玄恕を含嘉城に、魯王道徇を曜儀城に配属させた。
自身は戦兵を率い、左輔大将軍楊公卿が左龍驤二十八府の騎兵を、右游撃大将軍郭善才が内軍二十八府の歩兵を、左游撃大将軍跋野綱が外軍二十八府の歩兵を指揮し、合計三万人で唐軍に備えた。

弘烈と行本は世充の子であり、泰は世充の兄の子であった。

梁師都は突厥および稽胡の兵を引き連れて侵略したが、行軍総管段德操がこれを破り、首を千余り討ち取った。

羅士信は前軍を率いて慈澗を包囲し、王世充は自ら三万の兵を率いてこれを救援した。
己丑の日、秦王世民は軽騎を率いて前に進み、王世充の動向を偵察したが、突然これに遭遇した。兵力が少なく不利な状況であり、道は険しく狭いため、王世充の軍に包囲された。世民は左右の部下とともに疾走し矢を放ち、その矢が全て命中して敵を討ち取った。王世充の左建威将軍である燕琪を捕らえた後、王世充は撤退した。

世民が自軍の陣営に戻る際、埃と塵にまみれた顔のせいで味方の兵士たちは彼を認識できず、拒もうとした。
世民は兜を脱ぎ、自ら名乗ることでようやく陣営に入ることができた。翌日、五万の歩兵と騎兵を率いて慈澗へ進軍した。王世充は慈澗の守備隊を撤退させ、洛陽に戻った。

秦王世民は、行軍総管の史万宝に命じて宜陽から南へ進み龍門を占拠させ、将軍の劉徳威に太行山から東へ河内を包囲させた。
さらに上谷公の王君廓には洛口で王世充の補給路を断たせ、懐州総管の黄君漢には河陰から回洛城を攻撃させた。唐軍の主力は北邙山に駐屯し、連なる陣営を形成して王世充軍を圧迫した。

このとき、王世充の洧州長史である繁水の張公謹と刺史の崔樞が州城を唐に降伏させた。

八月丁酉の日、南寧の西爨蛮が使者を遣わして貢物を献じた。隋末に爨蛮の族長である爨玩が反乱を起こして誅殺され、その子供たちは官奴とされて地を失った。唐の高祖が即位すると、爨玩の子の弘達を昆州刺史に任じ、その父の遺骨を故郷に戻して葬ることを許した。益州刺史の段綸が使者を派遣してその部族を説得し、全て降伏させた。

己亥の日、竇建德に属していた共州の県令・唐綱が刺史を殺害し、州を唐に降伏させた。

鄧州では地方豪族が王世充の任命した刺史を捕らえ、唐に降伏した。

癸卯の日、梁師都の石堡の留守官・張舉が千人余りを率いて唐に降伏した。

甲辰の日、黄君漢は校尉の張夜叉を遣わして船隊を率い回洛城を襲撃させた。これを攻略し、王世充の将である達奚善定を捕らえ、さらに河陽の南橋を破壊して撤収した。20以上の砦や集落を降伏させた。王世充は太子の王玄応に楊公卿らを率いて回洛城を奪還させようとしたが失敗した。王世充は回洛城の西に月城を築き、守備兵を残した。

王世充は青城宮で軍を布陣し、秦王世民もこれに応じて陣を敷いた。王世充は川を隔てて世民に呼びかけた。
「隋の皇室が滅び、唐は関中で帝となり、鄭は河南で帝となった。私はこれまで西へ侵攻したことはない。それなのに、なぜ秦王は突然東へ軍を進めてきたのか?」

世民は宇文士及に答えさせた。
「四海の民は皆、皇帝の徳を仰いでいる。ただ公だけがその教えを拒んでいる。それゆえ、討伐に来たのだ。」

王世充はさらに言った。
「兵を止めて和平を結ぶのはどうだ?」

宇文士及は再び答えた。
「詔を受けて東都を平定するのが使命である。和平を結ぶなどという命令は受けていない。」

その日の夕方、両軍はそれぞれ兵を引いて陣に戻った。

Applied Methods on A1111

翻訳は翻訳で前段で続けますが…一つ余談、つか追記です。

以前作成した、A1111でしか出来ない画像高画質化手法について、応用的な手法を一つ追記しています。

AI画像生成ベースがFlux1に移行し、ComfyUIが爆発的に進化している現在、A1111を使う意味てあるのか…と問われれば、私は以下記事に記載した一点だけを以て、意味があるというでしょう。

と言うか「これ」本当にForgeでもComfyUIでも再現不能な技なのですよ。



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