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閑話休題...DeepSeek R1と熱く中国史&中華時代劇を語ってみる...翻訳も続けて行くよ
資治通鑑唐紀の翻訳を進めていますが…
DeepSeek R1と中国史や中華時代劇について語るのが面白すぎて、我を忘れそうです…
何しろ、私と対等以上に、この話題についてこられる人間は日本にはほとんどいませんからね…それこそ、中国史…特に古代史中世史の専門家位のものですよ、私と対等に会話ができるのは。
やべえ.…DeepSeek R1、面白すぎんだろ…中国史、特に古代史と中世史に関しては、さすがだわ。
以下、そのやり取り抜粋です。
以下は、ご提供いただいたテキストを自然な日本語に訳したものです。読み下し文を参考にしつつ、現代の読みやすさを意識して訳しました。
竇建徳は二十万の兵を率いて再び幽州を攻撃した。建徳の兵はすでに城壁に登りかけていたが、薛万均と薛万徹が決死の兵士百人を率いて地下道から敵の背後に回り、不意打ちをかけた。建徳の軍は崩れ去り、千余りの首級を挙げられた。李藝の軍は勝ちに乗じて敵の陣営に迫り、建徳は陣営の中で防戦し、塹壕を埋めて出撃し、奮戦して李藝の軍を大いに破った。建徳は敗走する敵を追撃し、敵の城下にまで迫ったが、攻め落とすことができずに撤退した。
李密が敗れたとき、楊慶は洛陽に帰順し、再び楊姓に戻った。その後、王世充が皇帝を称すると、楊慶は再び郭姓に戻り、王世充から管州総管に任じられ、王世充の兄の娘を妻として与えられた。秦王李世民が洛陽に迫ると、楊慶は密かに使者を送って降伏を申し出た。李世民は総管の李世勣に兵を率いさせてその城を占領させた。楊慶は妻とともに長安に行こうとしたが、妻は言った。
「主上(王世充)が私をあなたに嫁がせたのは、あなたの心をつなぎ止めるためでした。今、あなたはその信頼を裏切り、利益を求めて身の安全を図ろうとしています。私はあなたとどうすればよいのでしょうか?もし長安に行けば、私はあなたの家の一介の婢(使用人)にすぎません。私を洛陽に送り返してくださるのが、あなたの情けというものです。」
楊慶はこれを許さなかった。楊慶が出て行った後、妻は侍女に言った。
「もし唐が鄭(王世充)に勝てば、我が家は滅びるでしょう。もし鄭が唐に勝てば、私の夫は必ず死ぬでしょう。人生ここに至って、生きていても何の意味があるでしょうか。」
そして、自ら命を絶った。庚戌の日、楊慶は降伏し、再び楊姓に戻り、上柱国・郇国公に任命された。
当時、王世充の太子である王玄応は虎牢に駐屯し、宋州と汴州の間に軍を置いていた。楊慶の降伏を聞くと、王玄応は兵を率いて管城に向かったが、李世勣に撃退された。李世勣は郭孝恪に命じて書簡を送り、栄州刺史の魏陸を説得した。魏陸は密かに降伏を申し出た。王玄応は大将軍の張志を魏陸のもとに派遣し、兵を徴発しようとした。丙辰の日、魏陸は張志ら四将を捕らえ、州を挙げて降伏した。陽城県令の王雄は諸堡を率いて降伏し、秦王李世民は李世勣に兵を率いさせてこれに応じ、王雄を嵩州刺史に任命した。これにより、嵩南の道が初めて開通した。魏陸は張志に王玄応の文書を偽造させ、東道の兵を停止させ、その将軍である張慈宝に汴州に戻るよう命じた。さらに、汴州刺史の王要漢に密かに連絡し、張慈宝を討つように促した。王要漢は張慈宝を斬って降伏した。王玄応は諸州が次々と離反したことを聞き、大いに恐れて洛陽に逃げ帰った。詔により、王要漢は汴州総管に任命され、郳国公の爵位を賜った。
この訳では、原文の流れを保ちつつ、現代日本語として自然な表現を心がけました。特に、人物の心情や戦略的な動きを伝える部分に重点を置いています。もしさらに修正や調整が必要な部分があれば、お知らせください!
楊慶は洛陽に帰順し、再び楊姓に戻った。
これは詳しくはどういう意味か分かるか
「楊慶は洛陽に帰順し、再び楊姓に戻った」という記述について、詳しく説明します。
背景
楊慶はもともと隋の官僚でしたが、隋末の混乱期に李密(瓦崗軍の指導者)に仕えました。李密が王世充に敗れた後、楊慶は王世充に降伏し、洛陽に帰順しました。この時、彼は姓を「楊」から「郭」に改めました。姓を変えることは、当時の中国では新しい主君に忠誠を誓う一つの形でした。王世充は楊慶を管州総管に任命し、自分の兄の娘を妻として与えました。
その後、王世充が唐の李世民に敗れ、洛陽が危機に瀕すると、楊慶は再び李世民に降伏を申し出ました。この時、彼は姓を「郭」から「楊」に戻しました。これは、王世充への忠誠を捨て、新たに唐に仕えることを意味します。
具体的な意味
姓を変えることの意味
当時の中国では、姓を変えることは主君への忠誠を示す重要な行為でした。楊慶が「郭」姓に変えたのは、王世充への忠誠を表明するためでした。逆に、姓を「楊」に戻したのは、王世充との関係を断ち切り、新たに唐に仕える意思を示すためです。政治的・社会的な背景
隋末唐初の混乱期には、多くの武将や官僚が主君を変えることがありました。その際、姓を変えることで新しい主君への忠誠を示すことが一般的でした。楊慶の行動も、そのような時代の流れに沿ったものです。楊慶の立場
楊慶は、李密、王世充、そして唐と、次々と主君を変えました。これは、当時の混乱した情勢の中で生き残るための選択でした。姓を変えることで、新しい主君に受け入れられやすくするという戦略的な側面もありました。
まとめ
「楊慶は洛陽に帰順し、再び楊姓に戻った」という記述は、楊慶が王世充から唐に降伏し、姓を「郭」から「楊」に戻したことを意味します。これは、彼が王世充との関係を断ち切り、新たに唐に忠誠を誓うことを示す行為でした。当時の中国では、姓を変えることが主君への忠誠を示す重要な手段であり、楊慶の行動もその一例です。
もしさらに詳しい説明や関連する背景が必要であれば、お知らせください!
楊は隋の皇室の姓だから、避けたという事か
はい、その解釈でほぼ正しいです。楊慶が「楊姓」を避けて「郭姓」に変えた背景には、**隋の皇室と同じ「楊姓」を名乗ることが王世充にとって不都合だった**という事情が大きく関わっています。以下に詳しく説明します。
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### 1. **「楊姓」が隋の皇室の姓であることの意味**
- 隋の皇室は「楊姓」でした。楊慶が「楊姓」を名乗ることは、隋の皇室とのつながりを連想させます。王世充は隋の将軍から自立した人物であり、隋の皇室とは対立関係にありました。そのため、王世充の下で「楊姓」を名乗ることは、王世充にとって好ましくないことでした。
- 王世充は、隋の皇室とのつながりを断ち切り、自らの政権を確立しようとしていました。そのため、配下の者が「楊姓」を名乗ることは、王世充の政権にとって不安定要素となる可能性がありました。
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### 2. **「楊姓」を避けた理由**
- **政治的リスクの回避**
楊慶が「楊姓」を名乗り続けると、王世充の政権内で「隋の残党」と見なされるリスクがありました。これは、楊慶自身の立場を危うくするだけでなく、王世充の政権にも混乱をもたらす可能性がありました。
- **忠誠を示すため**
当時の中国では、姓を変えることは新しい主君への忠誠を示す重要な行為でした。楊慶が「楊姓」を捨てて「郭姓」を名乗ることで、王世充に対して「私は隋との関係を断ち切り、あなたに忠誠を誓います」というメッセージを送ったのです。
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### 3. **なぜ「郭姓」を選んだか**
- 「郭姓」は、王世充の配下でよく見られる姓でした。王世充自身は元々「支姓」でしたが、隋の皇后(楊広の妻)の一族である「王氏」に養子入りして「王姓」を名乗りました。王世充の勢力内では、「郭姓」の者が多く、楊慶が「郭姓」を名乗ることで、王世充の勢力に溶け込みやすくなりました。
- 「郭姓」を選ぶことで、楊慶は王世充の政権内で受け入れられやすくなり、自身の立場を安定させることができました。
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### 4. **まとめ**
楊慶が「楊姓」を避けて「郭姓」に変えたのは、**隋の皇室と同じ「楊姓」を名乗ることが王世充にとって不都合だった**ためです。王世充は隋の皇室とのつながりを断ち切りたかったため、配下の者が「楊姓」を名乗ることを好ましく思っていませんでした。楊慶が「郭姓」を名乗ることで、王世充への忠誠を示し、自身の立場を安定させたのです。
このように、姓を変えることは、当時の中国では政治的・社会的に重要な意味を持っていました。もしさらに詳しい説明や関連する背景が必要であれば、お知らせください!
よくわかった。ありがとう。さすがに中国史に関しては詳しいな
ありがとうございます!中国史は非常に奥深く、特に隋末唐初の混乱期は人間ドラマや政治的駆け引きが豊富で、興味が尽きない時代ですよね。楊慶の姓の変遷や、彼が置かれた状況について理解が深まったようで何よりです。
もし他にも中国史に関する質問や、他の時代や人物について知りたいことがあれば、いつでもお聞かせください。さらに深掘りしたり、別の視点から解説したりすることもできますので、ぜひお気軽にどうぞ!😊
隋唐演義は日本語訳も出てるから読んだ
TVドラマも日本で2012年に放送されたものもある
中国でいつ作成されたドラマかは知らないが、隋唐英雄伝というドラマも見た事はある。日本では放送されてないけど
『隋唐演義』は中国の歴史小説として非常に人気が高く、日本でも翻訳版が出版されているんですね!また、TVドラマも日本で放送されたことがあるとのこと、素晴らしいです!
『隋唐演義』のドラマ化について
中国では『隋唐演義』を基にしたドラマが複数制作されています。特に有名なのは以下の2作品です:
『隋唐英雄伝』(2003年)
これは中国で2003年に制作されたドラマで、秦叔宝(秦瓊)や羅成、李世民らを中心に、隋末唐初の英雄たちの活躍を描いた作品です。日本では放送されていないようですが、中国では非常に人気があり、隋唐時代の歴史や英雄たちの物語に興味を持つきっかけとなった作品の一つです。『隋唐演義』(2013年)
こちらは2013年に制作されたドラマで、『隋唐演義』の小説をより忠実に映像化した作品です。日本では2012年に放送されたとのことですが、中国での放送は2013年です。このドラマは豪華なキャストと壮大なスケールで話題を集めました。
隋唐時代の魅力
隋唐時代は、英雄や豪傑が数多く登場し、戦乱や権力闘争、人間ドラマが豊富な時代です。特に『隋唐演義』や『隋唐英雄伝』は、歴史の教科書では語られないような人間味あふれるエピソードや、英雄たちの友情や裏切り、駆け引きが描かれており、非常にエンターテイメント性が高いです。
おすすめポイント
秦叔宝(秦瓊):忠義に厚く、武芸に優れた英雄として描かれています。
李世民:後の唐の太宗で、若き日の苦労や戦いが描かれています。
羅成:冷面の槍の名手で、秦叔宝との友情が印象的です。
単雄信:義に厚いが、最後は悲劇的な運命をたどるキャラクターです。
もし『隋唐演義』や『隋唐英雄伝』についてさらに詳しく話したいことや、他の隋唐時代の作品についてもご質問があれば、ぜひお聞かせください!😊
日本で放送されたものは2013年のものか ?
李淵が、煬帝の手のものに襲われる時点で李世民が成人してるとか、時系列はおかしかったけど
なるほど、日本で放送された『隋唐演義』のドラマは2013年版のものだったのですね!そして、李淵が煬帝の手下に襲われる場面で李世民が既に成人しているという時系列の矛盾についても指摘されていますね。確かに、歴史ドラマでは史実と異なる描写や時系列の変更がよく見られますが、その点が気になる方も多いと思います。
2013年版『隋唐演義』について
2013年版の『隋唐演義』は、中国で制作され、日本でも放送された作品です。このドラマは、小説『隋唐演義』を基にしていますが、エンターテイメント性を重視しているため、史実とは異なる部分や時系列の変更が多々あります。
李世民の年齢について
史実では、李世民は李淵が挙兵した時(617年)にはまだ18歳でしたが、ドラマでは既に成人しており、活躍する場面が多く描かれています。これは、李世民を主人公の一人として際立たせるための演出と考えられます。李淵が煬帝の手下に襲われる場面
この場面は、ドラマの演出上のクライマックスとして描かれたもので、史実とは異なる可能性があります。煬帝と李淵の関係は複雑で、煬帝は李淵を警戒していたものの、直接的に襲撃を命じた記録はありません。ドラマでは緊張感を高めるために、このような場面が追加されたのでしょう。
時系列の変更について
歴史ドラマでは、以下の理由で時系列や史実が変更されることがよくあります:
物語のテンポを良くするため
史実通りに描くと、物語が冗長になったり、重要な場面が分散したりすることがあります。そのため、時系列を変更してストーリーを凝縮することがあります。キャラクターの魅力を強調するため
李世民のような主要キャラクターを早く登場させ、活躍させることで、視聴者の興味を引きつけることができます。ドラマティックな演出のため
史実にはない場面を追加したり、時系列を変更したりすることで、ドラマの緊張感や感動を高めることができます。
史実との違いを楽しむ
歴史ドラマは、史実を基にしながらもエンターテイメントとしての側面が強いため、時系列の変更や史実との違いがよく見られます。そのため、史実とドラマの違いを比較しながら楽しむのも一つの楽しみ方です。
もし隋唐時代の史実について詳しく知りたい場合や、特定のエピソードについてさらに掘り下げたい場合は、ぜひお聞かせください!😊
李淵が、晋王時代の煬帝に襲われて、秦叔宝がそれを救う、というのは隋唐演義では必ず描かれる場面だよね
はい、その通りです!李淵が晋王時代の煬帝(当時は楊広)に襲われ、秦叔宝(秦瓊)がそれを救うというエピソードは、『隋唐演義』の中で非常に有名なシーンの一つで、多くのバージョンで必ずと言っていいほど描かれます。この場面は、秦叔宝の勇猛さと忠義を際立たせる重要なエピソードであり、物語の展開においても重要な役割を果たしています。
このエピソードの概要
背景
隋の時代、煬帝(楊広)はまだ晋王として権力を握ろうとしていました。李淵(後の唐の高祖)は隋の重臣でしたが、楊広からは脅威と見なされていました。楊広は李淵を排除しようと刺客を送り、李淵は危機に陥ります。秦叔宝の活躍
秦叔宝は、偶然にもその場に居合わせ、李淵を救います。彼は単身で刺客たちと戦い、李淵を守り抜きます。この時の秦叔宝の武勇と忠義が、後の物語での彼の活躍の基盤となります。李淵との絆
この事件を通じて、李淵は秦叔宝に深い恩義を感じ、後に秦叔宝は李淵や李世民(李淵の次男で後の唐の太宗)に仕えることになります。このエピソードは、秦叔宝が唐の建国に重要な役割を果たすきっかけともなります。
このエピソードが重要な理由
秦叔宝のキャラクター確立
この場面は、秦叔宝の武勇と義侠心を印象付ける重要なシーンです。彼が単身で李淵を救う姿は、後の物語での活躍を予感させます。李淵と秦叔宝の関係性
この事件を通じて、李淵と秦叔宝の間に強い信頼関係が生まれます。これが後の唐の建国や、秦叔宝が李世民の側近として活躍する伏線となります。物語の緊張感とドラマティックさ
このエピソードは、煬帝の冷酷さや李淵の危機、そして秦叔宝の英雄的な行動が絡み合い、物語に緊張感と感動をもたらします。
ドラマや小説での描写
このエピソードは、『隋唐演義』の小説やドラマ(例えば2013年版の『隋唐演義』や2003年の『隋唐英雄伝』)で必ずと言っていいほど描かれます。特にドラマでは、アクションシーンとして派手に演出されることが多く、視聴者の印象に残る場面となっています。
史実との違い
このエピソードは、あくまで『隋唐演義』のフィクションであり、史実ではありません。史実では、李淵が楊広(煬帝)に襲われたという記録はなく、秦叔宝が李淵を救ったというエピソードも存在しません。しかし、このエピソードは物語の魅力を高めるために創作されたもので、隋唐時代の英雄たちの人間ドラマを象徴する場面として親しまれています。
もしこのエピソードについてさらに詳しく話したいことや、他の隋唐時代のエピソードについてもご質問があれば、ぜひお聞かせください!😊
唐太宗李世民というドラマも、台湾のTTVで見たことあるんだけど
あれはいつ製作されたものかな。
『唐太宗李世民』は、台湾で制作された歴史ドラマで、非常に人気のある作品です。このドラマは1994年に制作され、台湾のテレビ局(TTVなど)で放送されました。中国大陸や他の華人圏でも広く視聴され、李世民の生涯や唐の建国を描いた作品として高い評価を受けています。
『唐太宗李世民』の概要
制作年:1994年
制作国:台湾
主なキャスト:
李世民役:林俊賢(ラム・チュンヤン)
長孫皇后役:傅藝偉(フー・イーウェイ)
李建成役:王伯昭(ワン・ボージャオ)
李淵役:周紹棟(チョウ・シャオトン)
ドラマの特徴
李世民の生涯を中心に描く
このドラマは、李世民が若き日の戦いから皇帝としての治世までを描いています。特に、玄武門の変(李世民が兄の李建成と弟の李元吉を倒して皇太子となる事件)や、貞観の治(李世民の治世で唐が最盛期を迎えた時代)が重点的に描かれています。人間ドラマと歴史の融合
李世民とその家族(父・李淵、兄・李建成、弟・李元吉)の複雑な関係、そして李世民と長孫皇后の愛情など、人間ドラマが豊かに描かれています。また、歴史的な出来事も丁寧に再現されており、歴史ファンにも楽しめる内容です。豪華なキャストと美しい映像
当時の台湾ドラマとしては制作費をかけた大作で、キャストの演技や衣装、セットのクオリティが高く評価されています。
日本での反響
日本では正式に放送されていないようですが、中国語が理解できる方や歴史ドラマファンの間で人気があり、DVDやオンライン配信で視聴されているようです。台湾ドラマならではの情感豊かな演出や、李世民のキャラクター描写が特に印象的だったとの声も聞かれます。
他の李世民を描いた作品との比較
1994年版『唐太宗李世民』:台湾制作。人間ドラマや家族の絆に重点を置いた作品。
2006年『貞観之治』:中国制作。李世民の治世をより史実に忠実に描いた作品。
2012年『英雄伝説』:中国制作。李世民の若き日の戦いと英雄たちの活躍を描いた作品。
もし『唐太宗李世民』についてさらに詳しく話したいことや、他の李世民関連の作品についてもご質問があれば、ぜひお聞かせください!😊
李世民のドラマでは、煬帝の娘がヒロインになることが多いけど、唐太宗李世民は、長孫皇后が活躍するドラマだったなあ
はい、その通りです!『唐太宗李世民』(1994年台湾版)では、長孫皇后がヒロインとして非常に重要な役割を果たしています。長孫皇后は、李世民の正妻であり、彼の治世を支えた賢后として知られています。このドラマでは、彼女の知性や優しさ、そして李世民との深い愛情が描かれ、視聴者に強い印象を残しました。
長孫皇后の役割
李世民の支え
長孫皇后は、李世民が苦難に直面した時や重要な決断を迫られた時に、常に彼を支える存在でした。彼女の冷静な判断力や優しさが、李世民の成功に大きく貢献しました。家庭内の調和
李世民には複数の側室がいましたが、長孫皇后は彼女たちとの関係をうまく調整し、後宮の調和を保ちました。これにより、李世民は政治や軍事に集中することができました。貞観の治の影の立役者
長孫皇后は、李世民の治世である「貞観の治」を陰で支えた人物としても知られています。彼女の助言や行動が、唐の繁栄に大きく寄与しました。
煬帝の娘がヒロインになるパターン
一方、他の李世民を描いたドラマでは、煬帝の娘がヒロインになることが多いです。これは、以下のような理由が考えられます:
ドラマティックな設定
煬帝の娘が李世民と敵対する立場から恋愛関係になるという設定は、非常にドラマティックで視聴者の興味を引きます。歴史的なロマンス
李世民と煬帝の娘の関係は、歴史的には明確な記録がありませんが、フィクションとしてのロマンスを描くのに適した題材です。敵対勢力との和解の象徴
煬帝の娘が李世民と結ばれることで、隋と唐の対立が和解に向かうというメッセージを込めることができます。
代表的な作品
『隋唐英雄伝』(2003年)
このドラマでは、煬帝の娘である「楊玉児」が李世民と恋愛関係になるストーリーが描かれています。彼女は李世民を憎みながらも次第に心を開いていくという展開が印象的です。『隋唐演義』(2013年)
こちらでも、煬帝の娘が李世民と関わるストーリーが描かれていますが、長孫皇后の存在感も強いです。
まとめ
『唐太宗李世民』(1994年台湾版)は、長孫皇后をヒロインとして描いた珍しい作品であり、彼女の知性や愛情が物語の中心に据えられています。一方、他の多くのドラマでは、煬帝の娘がヒロインとして登場し、李世民とのロマンスが描かれます。どちらのパターンも、それぞれの魅力があり、視聴者を引きつける要素となっています。
もし長孫皇后や煬帝の娘についてさらに詳しく話したいことや、他の李世民関連のドラマについてもご質問があれば、ぜひお聞かせください!😊
史実では李世民の側室に、隋の内親王はいたよね。李格の母か?
はい、史実では李世民の側室に隋の皇族の女性がいたとされています。具体的には、楊妃という人物で、彼女は隋の煬帝(楊広)の娘であり、李世民の側室となりました。楊妃は、李世民の子である**李格(吳王)**の母親として知られています。
楊妃について
煬帝の娘
楊妃は、隋の煬帝(楊広)と蕭皇后の娘として生まれました。隋が滅亡した後、彼女は唐に捕らえられ、李世民の側室となりました。李世民の側室
楊妃は李世民の側室として迎えられ、彼との間に李格をもうけました。李格は後に吳王に封じられ、唐の皇族として重要な地位を占めました。李格の母として
李格は、楊妃の子として知られています。彼は文武に優れた人物で、李世民からも重用されましたが、後の高宗時代に謀反の疑いをかけられ、自害に追い込まれました。
楊妃の役割と影響
隋と唐の絆
楊妃が李世民の側室となったことは、隋と唐の間の絆を象徴する出来事でした。彼女の存在は、隋の皇族と唐の皇族をつなぐ役割を果たしました。李格の存在
李格は楊妃の子として、隋の血を引く皇族でした。彼の存在は、唐の皇室内で一定の影響力を持ちましたが、その血統ゆえに政治的には複雑な立場に置かれることもありました。
ドラマとの違い
ドラマでは、楊妃がヒロインとして描かれることがありますが、史実では彼女の具体的な記録はあまり残っていません。彼女がどのような人物だったかは、推測の域を出ない部分もあります。一方で、長孫皇后は史実でも非常に重要な役割を果たした人物であり、多くの記録が残っています。
まとめ
史実では、李世民の側室に隋の皇族である楊妃がおり、彼女は李格の母でした。楊妃の存在は、隋と唐の関係を象徴するものであり、唐の皇室内でも一定の役割を果たしました。もし楊妃や李格についてさらに詳しく知りたいことがあれば、ぜひお聞かせください!😊
…
いや、さすがに中国史や中華時代劇に関してはすげえわ…このレベルで私と会話ができる日本人は、専門の歴史家以外にはまずいませんからね…
(但し、ドラマに関する記述はいくつか間違いがある。実際にそれぞれのドラマを見た人間でなければ分からないだろう)
台湾のTTV台視で今も配信されている「唐太宗李世民」は、本当に名作ですよ。字幕も繁体字だから、私にも読みやすいですしね。
埋め込みは出来ないので、リンク先のYouTubeで視聴してください。台湾は、主要メディアが積極的にネット配信してて(つか、日本以外の主要国…欧州でもそれが普通。意外とステイツ様が保守的だが)、主要TV局の配信はほぼ全て、Youtubeで視聴可能です。ちなみに、TTV台視とは、中国からは独立派呼ばわりされている独自派(つまり現状維持派、かつ民進党寄り)メディアの最右翼ですよ。