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資治通鑑卷一百八十七 唐紀三①


超絶濃密な…武徳元年(西暦618年)を一通り訳し終わりました。

いやいやいやいや…一年で事が起こりすぎだろ…大唐帝国の歴史約二百九十年…の内たった一年に二巻も要しています。

尚、前回までの翻訳一覧は、下記のマガジンをご覧ください。

当たり前ですが、いくら唐が最終的な勝者といっても、当時の歴史は唐だけで回っている訳ではないので、日本の戦国時代もそうであったように、当然中国全土で多くの群雄が割拠して、それぞれに争っていた訳です。

最も大きな出来事としては、隋末以来最大の風雲児にして一時は最も天下に近かった李密があっさり死にます。

隋末において、隋帝国最強の兵団であった張須陀率いる河南討捕軍(秦叔宝、羅士信も当時そこにいた)を壊滅させ、時代を代表する勇将智将を旗下に収め、要害の地を抑え、民衆の支持も得ていながらの、余りにもあっけない最後でした。

…ただ、唐に降伏後の李密の言動を見る限り、最初は李淵に忠誠を尽くして、その信頼を得、重臣として栄達する…選択肢も持っていたようで、最初から叛逆する意志ではなかったのでしょう。

一方で、西漢の周勃や灌嬰(両者とも最終的には漢帝国の丞相の官位に就き、位人臣を極めた)では満足できぬ…と言っている訳ですから、じゃあどういう地位なら満足できたんだよて話で、最終的には、他人の下に居続けることが出来ぬ男だったのでしょう…その意味では、必然...とも言える決裂と最後ではありました。

しかしながら、唐の廟堂内における李密への空気は決して好意的ではなかったようで(李淵一人は別にして)、官位官職はともかく、李密に対する唐の「冷たさ」が彼をして叛逆に走らせたという一面も、それはそれで否定できません。李密の為人と野心…だけに責任を帰するのは、歴史の観方としては公正さに欠けるとも言えます。

その他、高曇晟など日本ではほぼ知られていない群雄も登場しましたが、高曇晟は何と僧侶です。僧侶が皇帝になった例は…中国史にも余りなく、後に明の太祖となる、若い頃に極貧の末に托鉢僧をしていた朱元璋位のものでしょうか。

李密が信じていた予言…李姓にして水に因む字(主にサンズイを含む字を指すと思われる)を名前に持つものが天下を取る…は当時本当に存在したらしく、隋の文帝は実際に李姓を持つ重臣を粛清しています。

李密はその予言が指し示す者を自分の事だと確信していた(李密の字は法主)訳ですが、隋の文帝は猜疑心の強い人でしたが、さすがに自分の甥であり最も近しい親族である李淵を疑おうとはしなかったようです。

煬帝も従兄弟である李淵を最後まで疑っておらず、太原留守という兵権を持ち、北の大国突厥への備えを担う要職を与えていました。
(但し、李淵を朝廷の中枢から遠ざける為の左遷とする説も存在する)

最後の最後まで、野心を隠し通して保身に成功した李淵という人物…決して突出した智謀の持ち主という訳ではありませんが、なかなかに奥の深い、尋常ならざる人物だったようです。

高祖神堯大聖光孝皇帝上之下武德二年(己卯、公元六一九年)

王世充、隋朝(洛陽政権)の独裁権を握る

春、正月、壬寅の日、王世充は隋の朝廷で高官や名士をすべて招き入れ、自身の太尉府の官僚に任命した。杜淹や戴冑もその中に含まれていた。戴冑は安陽出身である。

隋の将軍・王隆は、屯衛将軍の張鎮周や都水少監の蘇世長らを率いて、山南地方の兵を伴い、東都(洛陽)に到着した(義寧元年の七月に隋の兵を東都へ集めるため派遣された)。
王世充は朝廷の政務を独占し、大事から小事まで全てを太尉府で決裁した。そのため、台省や監署の各機関は活動を停止し、閑散としていた。

王世充は府の門外に三つの掲示板を立てた。その内容は以下の通りである。
一つ目は「文才と知識を持ち、時勢を救う能力のある者を求む」、
二つ目は「武勇と智略を持ち、敵陣を突破できる者を求む」、
三つ目は「冤罪や抑圧を受け、不満を訴える者を求む」。

この掲示により、訴えや意見を記した書状を提出する者が日に数百人も現れた。王世充はこれらの者すべてと面会し、自ら訴えを聞き、丁寧に励ましの言葉をかけた。そのため、人々は自分の意見が聞き入れられると喜んだ。しかし、実際には何の施策も実行されなかった。

さらに、兵士や下級の召使いに至るまで、王世充は優しい言葉をかけて彼らを喜ばせたが、実際に恩恵を施すことは一切なかった。

隋の馬軍総管・独孤武都は、王世充から特に信頼されていた。だが、彼の従弟である司隷大夫の独孤機は、虞部郎の楊恭慎、元勃海郡主簿の孫師孝、歩兵総管の劉孝元、李儉、崔孝仁らと密かに謀議を立て、唐軍を招き入れる計画をした。崔孝仁は独孤武都にこう説得した。

「王世充はただ見せかけのみにて身分の低い者たちを喜ばせているが、その本性は卑しく狭量で、貪欲で残酷だ。旧友や恩人を顧みることもなく、どうして大事業を成し遂げられるというのか!占いによれば(李姓にして水に因む名を持つものが天下を取る)、天下は李氏に帰する運命にあることは誰もが知っている。唐は晋陽で旗を挙げ、関中を制圧し、軍は進撃を止めることなく、英雄たちはみなその徳に服している。さらに、唐は寛大な態度で人を扱い、善人を抜擢して功績を評価し、過去の過ちは追及しない。このような有利な状況で天下を争えば、誰が対抗できるというのか!我々がこのまま王世充の下に留まれば、滅亡を待つのみだ。今、任管公の兵が新安に駐屯している。彼は我々の旧友でもある。密使を送り、夜間に城下に兵を展開させれば、我々は内応して城門を開け、必ず成功するだろう。」

独孤武都はこの提案を受け入れたが、計画は漏れ、王世充は全員を処刑した。楊恭慎は楊達(隋の観徳王雄の弟)の息子である。

癸卯の日、唐は秦王李世民を長春宮に派遣し、鎮守させた。

宇文化及は魏州総管・元宝蔵を攻撃したが、四十日間経っても攻略できなかった。魏徴が元宝蔵を説得し、丁未の日、元宝蔵は州ごと唐に降伏した。

戊午の日、淮安王李神通が魏県で宇文化及を攻撃した。宇文化及は対抗できず、東の聊城に逃げた。李神通は魏県を奪い、二千人以上を討ち取り、さらに聊城に逃げた宇文化及を追撃して聊城を包囲した。

甲子の日、唐は陳叔達を納言に任命した。

丙寅の日、李密が任命した伊州刺史の張善相が唐に降伏した。

朱粲の暴虐

朱粲は20万の軍勢を擁し、漢水と淮水の間の地域を略奪しながら移動を続けた。彼は州や県を攻め落とし、蓄えられていた穀物を消費しては尽きる前に他の場所へ向かい、去る際には余った資源をすべて焼き払った。また、農業を奨励せず、そのために住民は飢えにより死者が山をなすほどの状況となった。

粲の軍勢が掠奪できる資源を失い、食糧が不足すると、彼は兵士たちに婦人や幼児を煮て食べるよう命じ、こう述べた。「肉の中で最も美味なのは人間の肉だ。他国に人がいる限り、飢えを心配する必要はない。」隋の著作佐郎である陸従典や通事舎人の顔愍楚は、官職を左遷され南陽に滞在していたが、粲に招かれて賓客となった。しかし、後に食糧がなくなると、家族全員が粲の命令で食べられる運命となった。顔愍楚は、北斉末の有名な官僚、顔之推の子である。

さらに粲は、城砦の弱者を徴発して軍の食糧としようとしたが、各地の城砦は次々と反乱を起こした。淮安の豪族である楊士林と田瓚が挙兵して粲を攻撃すると、周辺の州もこれに呼応した。粲は淮源で彼らと戦ったが大敗を喫し、生き残った数千人の部下を率いて菊潭に逃亡した。

楊士林の家系は代々南方の蛮族の首領であり、隋末には彼自身が鷹揚府校尉となり、郡官を殺して郡を掌握していた。朱粲を駆逐した後、士林は己巳の日、漢東の四郡を率いて信州総管である廬江王瑗に降伏を申し入れた。朝廷はこれを認め、顕州道行台として士林を任命し、田瓚を長史に任命した。

王世充、専横を極める

一方、王世充は元文都と盧楚を殺害したが、人々の服従を得られないことを懸念し、表向きは皇泰主に忠誠を示して謙虚に振る舞った。彼はさらに劉太后の養子となることを願い出て、太后を「聖感皇太后」と尊称した。しかし、やがて傲慢になり、ある時禁中で食事を賜った際、家に帰って大いに嘔吐し、毒を盛られたと疑ったことから、以降は朝廷に参内しなくなった。

皇泰主は王世充が最終的に臣下の立場に甘んじないことを悟っていたが、それを制御する力はなかった。そこで、宮中の財宝を用いて盛大な幡や花を作らせ、また自身の衣服や装飾品を僧侶に配らせ、貧者に施して福を求めることに専念した。王世充は部下の張績と董浚を章善門と顕福門に配置し、宮内の物資が外に持ち出されることを厳しく禁じた。また、河水が澄んだと触れ回り、それを自身の吉兆と称した。

唐、律令制を推進する

その頃、唐の高祖は金紫光禄大夫の武功、靳孝謨を辺郡の鎮撫に派遣したが、彼は梁師都に捕らえられた。孝謨は師都を激しく罵り、これにより殺害された。朝廷は彼を追悼し、武昌県公の爵位を追贈し、諡号を「忠」と定めた。

さらに租庸調法が制定された。この法によれば、各戸が負担する租税は毎年粟2石、絹2匹、綿3両とされ、それ以外の不正な徴収は禁止された。

丙戌の日、詔して言った。
「宗姓に属する者は、官職に就いている者は同列の官僚よりも上位とし、未だ官職に就いていない者はその徭役を免除する。各州ごとに宗師1人を置き、これをもって宗族を統括させ、別に団伍を編成する。」

張俟徳が涼州に到着すると、李軌は群臣を召集し朝廷で議論した。
「唐の天子は我が従兄であり、今すでに京師において帝位を正しくしている。同じ一族でありながら、自ら天下を争うことはできない。私は帝号を捨て、唐の官職と爵位を受けようと思うが、どうだろうか?」

これに対し、曹珍は次のように答えた。
「隋がその天下を失ったことで、天下の人々はこれを追い求めています。王を名乗り、帝を称する者は、何も一人や二人ではありません。唐は関中で帝を称し、涼は河西で帝を称していますが、それによって互いに妨げられることはありません。それに、一度天子となった者が、どうして自ら地位を下げることができましょう!もし小国として大国に仕えようとお考えなら、かつて蕭察が魏に仕えた例に倣うべきです。」

李軌はこれに従った。

戊戌の日、李軌は尚書左丞の鄧曉を派遣して唐の高祖に謁見させた。書簡を奉じて「皇従弟大涼皇帝の臣・李軌」と称したが、唐の官職と爵位を受け入れることは拒否した。これに怒った高祖は鄧曉を拘束し、李軌を討伐するための軍事行動を計画し始めた。

かつて隋の煬帝が自ら吐谷渾を討伐した際、吐谷渾の可汗である伏允は数千の騎兵を率いて党項へ逃亡した。煬帝は伏允の質子である順を新たな君主に立て、残存勢力を統率させたが、本格的な征服には至らず撤退した。その後、中国が混乱に陥ると、伏允は再び元の領地を回復した。

唐の高祖が即位すると、順は江都から長安に戻った。高祖は使者を派遣して伏允と同盟を結び、李軌を攻撃するよう依頼し、その報酬として順を返還することを約束した。伏允はこれを喜び、兵を挙げて李軌を攻撃し、頻繁に貢物を送って順の返還を求めた。高祖はその要請に応じた。

閏月、朱粲は使者を派遣して降伏を申し入れた。高祖は詔を発して朱粲を楚王に任じ、彼自身が官僚を任命し、適宜行動することを許可した。
(つまり形式的な降伏であって、事実上自立している)

竇建徳、宇文化及を殺害

宇文化及は珍しい財宝を用いて海沿いの盗賊を誘い入れた。盗賊の首領である王薄は兵を率いて宇文化及に従い、ともに聊城を守備した。

これに対し、竇建徳は部下に次のように述べた。
「私は隋の民であり、隋は私の君主である。今、宇文化及が逆賊となり隋の皇帝を弑したことは、私にとって仇敵以外の何ものでもない。これを討たずにはおれない!」

こうして竇建徳は兵を率いて聊城へ向かった。

唐の淮安王李神通は聊城を攻撃したが、宇文化及の軍は糧食が尽き、降伏を申し出た。しかし、神通はこれを許さなかった。安撫副使の崔世幹が降伏を受け入れるよう進言すると、神通は次のように答えた。
「軍士たちは長く戦場で苦しみ、賊は食糧を失い、策も尽きている。勝利はもう目前にある。私は攻撃を成功させて国家の威光を示し、その後、賊から奪った財宝を軍士に分け与えて慰労するつもりだ。もし降伏を受け入れてしまったら、何をもって軍士たちに報いるのか!」

世幹は反論して言った。
「現在、竇建徳がすぐ近くに迫っています。もし化及を平定できなければ、我々は内外から敵に挟撃され、必ず敗北するでしょう。戦わずして降伏させることは容易な功績です。どうして財宝を惜しみ、降伏を受け入れないのですか!」

神通は激怒し、世幹を軍中に幽閉した。

その後、宇文士及が済北から援軍を送り、化及の軍勢は再び息を吹き返し、唐軍に抵抗した。神通は兵を指揮して攻撃を続けたが、貝州刺史の趙君徳が城壁をよじ登り、先陣を切って敵城に突入した。これを見た神通は、君徳が功績を独占するのを妬み、攻撃を中止して兵を撤退させた。君徳は激怒して攻城を諦めたため、城を落とすことができなかった。

その間に竇建徳の軍が到着すると、神通はやむを得ず撤退した。

竇建徳は宇文化及の軍と何度も戦い、これを大いに打ち破った。宇文化及は再び聊城に立てこもったが、建徳は四方から攻め立てた。ついに聊城の守将である王薄が城門を開き、竇建徳を迎え入れた。

建徳は聊城に入城すると、宇文化及を生け捕りにした。まず隋の蕭皇后に謁見し、自らを臣下と称して礼を尽くした。そして素服を着て隋の煬帝の死を哀悼し、涙を流して弔った。さらに、隋の伝国璽や宮中の儀仗を収め、隋の官僚たちを丁重に扱った。その後、逆賊とされた宇文智及、楊士覧、元武達、許弘仁、孟景らを捕らえ、隋の官僚たちの前で斬首した。彼らの首は軍門の外に掲げられた。

竇建徳は檻車に宇文化及とその二人の息子(承基と承趾)を乗せて襄国に送り、そこで彼らを処刑した。宇文化及は死の間際、ただ一言「私は夏王に恥じることはない!」とだけ言い残し、他に何も語らなかった。

義人竇建德

竇建德は戦で勝利して城を落とすたびに、得た財宝をすべて将士たちに分け与え、自分では一切取らなかった。また、肉を口にせず、常に野菜や茹でた粟飯を食べていた。妻の曹氏も華美な衣服を身に着けず、仕える婢妾はわずか十人ほどしかいなかった。

化及を破った際、隋の宮女千人以上を捕らえたが、その場ですぐに解放して散らせた。また、隋の黄門侍郎である裴矩を左僕射に任じ、人事選任を担当させた。さらに、兵部侍郎の崔君肅を侍中とし、少府令の何稠を工部尚書に、右司郎中の柳調を左丞に、虞世南を黄門侍郎に、欧陽詢を太常卿に任じた。欧陽詢は欧陽紇の息子である。他の官吏についても才能に応じて職を与え、政務を委ねた。

留任を望まない者や関中や東都に行きたいと希望する者には、それを許し、資金や食料を与え、兵をつけて安全に国境を出られるよう配慮した。また、隋の精鋭兵である驍果隊のうち、一万人近い兵士たちも各自自由に去ることを許し、その行き先に干渉しなかった。

さらに王世充と友好関係を結び、隋の皇泰主に使者を送り表を奉じた。皇泰主はこれに応えて竇建徳を夏王に封じた。竇建徳はもとは盗賊から身を起こし、国を建てたものの、まだ国家としての礼儀や法制度は整っていなかった。そこで裴矩が朝儀を定め、律令を制定した。建徳はこれを非常に喜び、常に裴矩に儀礼について意見を求めた。

甲辰の日、竇建徳は群臣の働きを評価し、李綱と孫伏伽を最優秀と認めた。その後、酒宴を催して群臣を集め、裴寂らに向かって次のように述べた。
「隋は、君主が驕り高ぶり、臣下がへつらったために滅びた。私は即位して以来、常に虚心に諫言を求めてきたが、真に忠義を尽くしたのは李綱のみであり、孫伏伽は誠実で率直であると言える。しかし、他の者たちはまだ隋の悪習を引き継ぎ、眉を伏せて何も言わない。これが私の望むところであろうか!私は諸卿を愛する子のように見ている。卿らも私を慈父のように見て、思うところがあればすべて打ち明け、決して隠してはならない。」

そう述べると、君臣の形式的な礼を取り払い、大いに楽しんだ末に宴を閉じた。

唐は、前御史大夫の段確を使者として朱粲のもとに派遣した。

初め、李淵が隋の殿内少監であった頃、宇文士及は尚輦奉御であり、李淵とは親しく交際していた。士及は宇文化及に従って黎陽に到達したが、李淵から直接の詔を受けて唐に招聘されることとなった。士及は密かに家僕を長安に送り、さらに使者を通じて金環を献上して唐への帰順を希望した。

その後、化及が魏県に到達するにつれ、兵力は次第に衰えていった。士及は化及に対し、唐へ降伏するよう説得したが、化及はこれを受け入れなかった。一方、内史令の封徳彝は士及に濟北で軍糧の徴収を監督させ、その状況を観察した。化及が帝号を称した時、士及を蜀王に任じたが、化及の死後、士及は封徳彝とともに濟北から唐に降伏した。

その時、士及の妹が昭儀であったため、上は士及に儀同三司の官職を授けた。しかし、封徳彝については隋の旧臣でありながら諂い巧みに振る舞い不忠であったため、厳しく叱責して官を解き、一時的に家へ戻らせた。その後、封徳彝が秘策を進言すると、上はこれを喜び、彼を内史舎人に任じ、間もなく待郎に昇進させた。

甲寅の日、隋の夷陵郡丞であった安陸の許紹が黔安、武陵、澧陽などの諸郡を率いて降伏した。許紹は幼少期に唐の帝とともに学問を学んだ仲であった。これにより、上は許紹を峽州刺史に任じ、安陸公の爵位を授けた。

丙辰の日、徐世勣を黎州総管に任命した。

丁巳の日、驃騎将軍の張孝鈱が百人の精鋭兵を率いて王世充の汜水城を襲撃し、その城郭内に侵入。米船150艘を沈めた。

秦叔宝と程知節、唐に帰順す

己未の日、王世充が穀州を攻撃した。彼は秦叔宝を龍驤大将軍、程知節を将軍に任じ、厚遇した。しかし、二人は王世充の多くの詐欺行為に不信感を抱いていた。程知節は秦叔宝に言った。
「王公(王世充)は器量が狭く、嘘をつくことが多い。咒誓を好むが、これでは老巫女も同然であり、乱世を治める器ではない!」

その後、王世充が唐軍と九曲で戦う際、秦叔宝と程知節は自軍を率いて戦列にあったが、数十騎を連れて西へ百歩ほど走り、馬を降りて王世充に礼を尽くして言った。
「我らは公の厚遇に報いようと深く考えてきました。しかし、公は猜疑心が強く、讒言を信じやすい。我らの身を託すべき人ではありません。もはや公に仕えることはできません。ここで別れを告げます。」
そう言い終えると、馬に乗って唐に降伏した。王世充はこれを阻止することができなかった。

上は二人を秦王世民に仕えさせた。世民は以前から二人の名声を聞いており、厚く礼を尽くした。そして、秦叔宝を馬軍総管に、程知節を左三統軍に任じた。

また、王世充の驍将であった武安郡の李君羨と、臨邑の田留安もまた王世充の人格を嫌い、部下を率いて唐に降伏した。世民は李君羨を側近に引き入れ、田留安を右四統軍に任じた。

王世充は李育徳の兄である李厚徳を獲嘉に幽閉していたが、厚徳はその守将である趙君穎と共に殷州刺史の段大師を追放し、城を唐に降伏させた。上は厚徳を殷州刺史に任命した。

斉王李元吉、驕慢の末に人心を失う

竇建德は邢州を陥落させ、総管の陳君賓を捕らえた。皇帝(高祖)は殿内監の竇誕と右衛将軍の宇文歆を派遣し、并州総管の斉王元吉を支援して晋陽を守らせた。竇誕は竇抗の子で、皇帝の娘である襄陽公主と結婚している。

斉王元吉は性格が驕慢で奢侈を好んだ。彼の屋敷には数百人の奴婢が住み、彼らに甲冑を着けさせ、遊びで戦争ごっこを行わせていた。その結果、多くの死傷者を出し、元吉自身も傷を負ったことがある。乳母の陳善意がこれを厳しく諫めると、元吉は酒に酔って激怒し、力自慢の部下に命じて彼女を殴り殺させた。

また、元吉は狩猟を極端に好み、「三日間食べなくても構わないが、一日でも狩りをしないことはできない」と公言していた。彼は竇誕とともに狩猟に出かけ、農民の作物を踏み荒らしたばかりか、部下に民衆の財物を奪わせ、道端で矢を放ち、民衆が矢を避ける様子を楽しんだ。夜になると屋敷の門を開け、他人の家で乱行を働いた。このような振る舞いに民衆の憤りが高まり、宇文歆が何度も諫めたが聞き入れられず、遂にその状況を奏上した。

壬戌、元吉は職務を罷免された。
癸亥、陟州刺史の李育徳が王世充の河内の砦31か所を攻め落とした。
乙丑、王世充は甥の君廓を派遣して陟州を攻撃させたが、李育徳がこれを撃退し、1,000人以上の首級を挙げた。

李厚徳は親の病を見舞うため帰郷し、李育徳に獲嘉の守備を任せた。しかし、王世充が兵を集めて攻撃を仕掛け、丁卯、獲嘉の城が陥落した。李育徳とその弟3人は全員戦死した。

己巳、李公逸が雍丘を献じて降伏し、杞州総管に任じられた。また、その族弟の李善行を杞州刺史に任じた。

隋の吏部侍郎であった楊恭仁は、かつて宇文化及に従って河北に至ったが、宇文化及が敗北すると、魏州総管の元宝蔵によって捕らえられ、己巳、長安に送られた。皇帝は楊恭仁を昔から知っていたため、黄門侍郎に任じ、その後、涼州総管に抜擢した。楊恭仁は辺境の事情に通じ、羌や胡の民の実情や策略をよく理解しており、その統治により蔵嶺以東の諸民族が皆朝貢に訪れるようになった。

その頃、突厥の始畢可汗が軍勢を率いて黄河を渡り夏州に進出し、梁師都が兵を発してこれに合流した。梁師都は500騎を劉武周に渡し、句注を通って太原を攻撃しようとした。ちょうどこのとき、始畢可汗が死去し、幼少の子である什鉢苾が即位には不適当とされ、弟の俟利弗設が立てられて処羅可汗となった。処羅可汗は什鉢苾を尼歩設とし、東側に住まわせ、幽州の北に直面する地域を統治させた。

これに先立ち、皇帝は右武候将軍の高静を派遣し、幣を携えて始畢可汗のもとに向かわせたが、途中の豊州で始畢可汗の死去を聞き、贈り物を現地の倉庫に収めるよう指示した。この報を聞いた突厥は激怒し、侵略を企てた。しかし、豊州総管の張長遜が高静を使者として派遣し、幣を持って国境を越え、朝廷の名で弔意を表したため、突厥は侵略を取りやめて引き返した。

三月庚午、梁師都が靈州を攻撃したが、長史の楊則がこれを撃退した。

壬申、王世充が穀州を攻撃し、刺史の史萬寶が戦ったが不利を被った。

庚辰、隋の北海通守である鄭虔符、文登令の方惠整、そして東海、齊郡、東平、任城、平陸、壽張、須昌の賊帥である王薄らが、それぞれの地を引き渡して唐に帰順した。

王世充、隋を簒奪す

王世充が新安を攻撃した。これは表向きには単に占領を目的としたものと見せかけていたが、実際には、自分に従う文武官僚を召集し、隋の皇帝から禅譲を受けることを議論するためであった。李世英はこれに強く反対し、次のように述べた。
「四方から奔走して東都に帰属する者たちがいるのは、公が隋室を再興することができると信じているからです。今、九州の地の一つすらまだ平定されていない状態で、急いで位号を正そうとすれば、遠方の人々は皆、背いて離れることを望むようになるでしょう。」

これを聞いた王世充は、「あなたの言う通りだ」と答えた。

しかし、長史である韋節や楊續らは次のように述べた。
「隋の王朝はすでに命運が尽きたことは、道理から見ても明らかです。このような異常事態については、そもそも常人と議論すべきではありません。」

また、太史令の樂德融は次のように述べた。
「かつて長星が現れたのは、古い体制を除いて新しい体制を布く兆しでした。そして今、歳星が角と亢に位置しています。亢は鄭州の領域を意味します。もし早急に天命に従わないのであれば、恐らく王の気運は衰えてしまうでしょう。」

王世充はこれらの言葉に従うことにした。

一方、外兵曹参軍の戴冑は、王世充に次のように進言した。
「君臣の関係はあたかも父子のようなものです。その喜びや悲しみは共にすべきものです。明公が忠誠を尽くして国家のために尽力すれば、家も国も共に安泰となるでしょう。」

世充は表向きはこれに賛同するふりをして、戴冑を外任に出した。世充が九錫を受けようと議論した際、戴冑が再び固く諫めたが、世充は激怒し、戴冑を鄭州長史として左遷し、兄の子である行本とともに虎牢を守らせた。

さらに、段達らに命じて皇泰主に九錫を世充に授けるよう請願させた。皇泰主は「鄭公は近年、李密を平定して太尉に任じられたが、それ以降目立った功績はない。天下がある程度平定された後に議論しても遅くはない」と述べた。しかし段達が「太尉はこれを望んでいます」と重ねて進言すると、皇泰主は段達をじっと見つめ、「あなたに任せる」と応じた。

辛巳、段達らは皇泰主の詔をもって世充を相国に任じ、黄鉞を授け、百揆を総べさせ、爵位を鄭王に進め、九錫を加え、鄭国に丞相以下の官を置いた。

かつて宇文化及は隋の大理卿である鄭善果を民部尚書に任じ、聊城まで同行させたが、戦闘中に流矢を受けて負傷した。竇建德が聊城を攻略し、善果を捕らえた。王琮が善果を責め、「公は名門の家の出でありながら、なぜ君を弑する賊に加担したのか」と非難した。善果は深く恥じ、自害しようとしたが、宋正本がこれを救った。
その後、建德は礼遇せず、相州に逃れた。淮安王の神通が善果を長安に送ると、皇帝は優遇し、左庶子に任じ、内史侍郎を兼任させた。

甲申、齊王元吉が并州の父老に対し、自身を留任させるよう奏上するよう促した結果、并州総管に再任された。

戊子、淮南の五州が使者を送り唐に帰順した。

辛卯、劉武周が并州を襲撃した。

壬辰、營州総管の鄧暠が高開道を攻撃し、これを打ち破った。

甲午、王世充がその将の高毘を派遣し、義州を攻撃させた。

東都の道士・桓法嗣が王世充に「孔子閉房記」を献じて言った。
「宰相は隋に代わりて天子と成るべきです。」

これを聞いた世充は大いに喜び、桓法嗣を諫議大夫に任命した。また、世充は様々な鳥を捕まえ、その首に布を括り付けて符命(天命の象徴)であると称し、それを放った。この鳥を捕らえて献上した者には官爵を与えた。

その後、段達は皇泰主の命を受けて、世充に特別な礼遇を施した。世充は表文を三度奉じて辞退するそぶりを見せたが、百官の勧進を受け、都堂に座を設けて即位の準備を進めた。
納言の蘇威は高齢のため朝廷に出仕できなかったが、世充は彼を隋の重臣として士民に誇示するため、勧進の際には必ずその名を冠した。そして即位の儀式の日には、蘇威を百官の上席に扶け置き、自らは南面して正式にその礼を受けた。

4月、劉武周は突厥の軍勢を引き連れ、黄蛇嶺に陣を敷き、その勢いは非常に盛んであった。
一方、齊王李元吉は車騎将軍の張達に歩兵百人を率いさせて試しに敵を攻撃させようとしたが、張達は兵力が少ないため不可能だと断った。それでも元吉は強引に命じ、張達は出陣したが、兵士もろとも全滅した。これに憤った張達は庚子、劉武周を引き連れて楡次を奇襲し、これを陥落させた。

散騎常侍の段確は酒を好む性格で、皇帝の命令を受け、朱粲を慰労するため菊潭に向かった。しかし辛丑、酔った勢いで朱粲を侮辱して言った。
「聞くところでは、卿は人を食べるのが好きらしいが、人肉はどんな味だ?」
朱粲は答えた。
「酔った人間を食えば、あたかも酒糟で漬けた豚肉のようなものだ。」

段確は激怒して罵った。
「狂人め、いずれ入朝して一介の奴隷になる身だ。まだ人を食べる気でいるのか!」

これを聞いた朱粲は宴席で段確とその従者数十人を捕らえ、全員を煮殺して左右の者に食わせた。その後、朱粲は菊潭を虐殺し、王世充のもとへ奔り、世充は彼を龍驤大将軍に任命した。

王世充は長史の韋節、楊続、および太常博士の孔穎達らに命じ、禅譲の儀式を作成させた。そして段達、雲定興ら十数人を遣わし、皇泰主に次のように奏上させた。
「天命は常に変わります。鄭王の功績と徳は非常に盛んでございます。どうか陛下、唐・虞(古代の禅譲による王朝交代)の先例に倣っていただきたく存じます。」

これに対し皇泰主は膝を正して机により、怒りを露わにして言った。
「天下は高祖(隋の文帝)の天下である。もし隋の命運がまだ尽きていないのなら、このような言葉は口にすべきではない。仮に天命がすでに改まったのならば、どうして禅譲など煩わしい手続きを必要とするのか!お前たちは祖父や父の代から仕えた旧臣であったり、朝廷で高い地位についている者である。それなのにこのような言葉を口にするとは、私は何を期待すればよいのか!」

その場の空気は凍りつき、廷臣たちは皆汗を流した。皇泰主は朝廷を退くと太后に泣きながら訴えた。

世充はさらに使者を派遣して皇泰主に言わせた。
「今、天下はまだ安定していません。まず長君を立て、四方が平定された後に明君の座をお返しいたします。この約束は必ず守ります。」

癸卯、王世充は皇泰主の名を借りて、自らに禅譲する形式を取った。そして兄の王世惲を派遣して皇泰主を含涼殿に幽閉し、三度の辞退の表文や勧告の勅書が出されたにもかかわらず、皇泰主には何も知らされなかった。
さらに将軍たちを派遣して兵を率いて宮城を制圧させ、術士を用いて桃湯と葦火で禁宮を浄化させた。

隋の将帥や郡県、さらに賊帥までが次々と唐に降伏してきた。これを受けて詔を発し、王薄を齊州総管とした。鄭虔符は青州総管、綦公順は淮州総管、王孝師は滄州総管に任じられた。

甲辰の日には、大理卿の新樂郎楚之を山東に派遣し安撫を命じ、秘書監の夏侯端には淮左を安撫する任を与えた。

乙巳の日、王世充は法駕を備えて宮中に入り、皇帝に即位した。

丙午の日、大赦を行い、元号を「開明」と改めた。

丁未の日、隋の御衛将軍・陳稜が江都から降伏してきたため、稜を揚州(古くは広陵と江都にあたる地域)総管に任じた。

戊申の日、王世充は息子の玄應を太子とし、玄恕を漢王に封じた。また、兄弟や宗族の計19人を王に封じ、皇泰主を潞国公とした。そして、蘇威を太師、段達を司徒、雲定興を太尉、張僅を司空、楊続を納言、韋節を内史、王隆を左僕射、韋霽を右僕射、兄の世惲を尚書令とした。さらに楊汪を吏部尚書、杜淹を少吏部とし、鄭頲を御史大夫とした。

また、国子助教であった呉人・陸德明を漢王玄恕の師に任じ、玄恕をして礼を尽くすよう指示した。しかし、陸德明はこの任命を恥じ、巴豆散を服用して仮病を装い、玄恕が謁見しても床下で利を催し、ついに言葉を交わすことなく退けた。陸德明の本名は朗であり、字によって知られている。

王世充は宮殿周囲や玄武門のほか、数か所に簡素な席を設け、特定の場を定めずに章表を直接受け取った。また、軽騎で街市を遊歴し、道を清めることなく、民衆は道を避けるのみだった。世充は馬を進めながら徐行し、民に向かい語った。
「かつての天子は九重の宮に深く居を構え、下々の事情が聞こえ届くことはなかった。今、私が天位を欲しているわけではなく、ただこの危機に際して民を救済したいだけである。一州の刺史のように自ら庶務を観て、士庶と共に朝政を議するべきだと思う。門に禁限があるのを恐れるので、門外に席を設けて直訴を聞くこととした。各々、気兼ねなく申すがよい。」

さらに、西朝堂を冤抑の訴えを聞く場とし、東朝堂を直諫を受ける場と定めた。これにより、献策や上書する者が日に数百人に及び、訴状は煩雑となり、全て目を通すことが難しくなったため、数日後には再び表に出なくなった。

一方で竇建德は王世充の即位を聞き、これを断絶し、自身を天子としての旗を掲げた。そして煬帝を「閔帝」と追諡し、さらに煬帝の子・政道を鄖公に封じた。しかし兵力を強化するために依然として突厥に依存していた。

義成公主が蕭皇后と南陽公主を迎えるために使者を送ると、竇建德は千余騎を派遣して護送し、さらに宇文化及の首を送り、義成公主に献じた。

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