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資治通鑑卷一百八十七 唐紀三②


いやいやいやいやいや…武徳二年も「濃ゆい」わあ.…てな感じで、群雄たちの天下取りの物語が続きます。

主な群雄達の中からは、まず風雲児李密が退場しましたが、代わって竇建德が河北で勢力を伸ばし、洛陽に拠る王世充は遂に隋を簒奪します。

これで李淵、王世充、宇文化及がそれぞれに隋を簒奪した事になり、隋朝は完全に滅亡しました。世界史の教科書レベルだけしか知らないと、唐が隋を滅ぼした…だけと勘違いしやすいですが、実は隋は3回に渡って、それぞれ別の人間に簒奪されていることになる訳ですね。こういう滅び方をした王朝も実は珍しい...というか他に例がないです。

そんな情勢の中で唐は着々と体制を固め、後に日本も取り入れることになる律令制を構築していきますが…この時点で既に唐王朝が様々な点で群雄達から抜きんでて優れていることがわかります。

まず注目すべきは、隋末の混乱の中で、中央政府が崩壊した為に孤立してしまった各地方自治体が、自発的に唐の傘下に入ろうとしている記述が随所に散見されます。

唐王朝は十年足らずで天下を統一しますが、それは勿論若き英傑秦王李世民の軍事的天才に拠る処が大きいのですが、それだけではなく、このように地方自治体が自発的に唐の傘下に馳せ参じた事も大きいのです。

これは当時の人々が、戦国の世の再来…群雄割拠の時代を心の底から嫌悪し、これ以上の戦争が続く事は我慢できない…とにかく、少しでもまともな王朝がさっさと天下を統一してくれ...と願っていた事を示しています。

この点については、当時の中国が西晋による短期的な統一期間を例外にして、日本でも比較的知られている東漢(日本では後漢と称するのが一般的だが、中国では東漢と称するのが常識)末の黄巾の乱以来、四百年以上分裂と戦乱の時代が続いてきた…というプロセスを理解する必要があります。

日本では、中国史の中でどういう訳か三国時代だけが突出して知られており、そもそも中国史というものを三国志でしか知らない人間が多い…のが現状ですが、そもそも三国時代というのは中国史の中でも最悪といっても良い位、悲惨な時代です。

あれを何やら「英雄達が活躍する時代」のように勘違いしている日本人も多いですが、とんでもない話で、そもそも「英雄不在」だからこそ、あんな不毛な戦乱がずるずると終結もせずに惰性化してしまったのです。

民衆にとっては最悪というしかない暗黒の時代です。

実際、西漢(前漢)全盛期に五千万を数えた総人口は、三国時代末には記録上は八百万(実際には千数百万程度と推測される)にまで激減しています。

戦争という行為に唯一の「善」が存在するとすれば、「さっさと勝って終わ
らせる」
以外の「善」はありません。

四百年続いた漢帝国も、三百年続いた唐帝国も、創業時には可能な限りの「善」を為した王朝と言って良いでしょう。つまり「さっさと勝って終わらせる」ことに成功した王朝だからです。

その観点からすると、三国志という時代は最低最悪の時代と言って良く、英雄たちの物語…処か英雄不在、二流三流の人間しかおらず、それらの人間たちが不毛な戦争を惰性化させてしまった悲劇の時代です。

話を隋末唐初に戻すと、この武徳二年の時点では、後の大唐帝国も四方八方敵ばかり…という困難な戦略状況下にあります。

何しろ、地方自治体が帰順してきた…と言っても、彼らは地方に孤立した存在で、武徳二年の時点では軍事的には無意味同然の存在です。

そんな中、「あの」凶悪な朱粲までが、食糧確保に窮した挙句に唐に投降してきますが…たちまち決裂した経緯も記されています。

その決裂した経緯も…何と言うか…とんでもない話ですが…唐としては帰順してきた勢力に対して一定配慮はせざるを得ないにしても、感情的には相当な嫌悪感があったらしく、それが「あんな結果」を招いたとも言えます。

一方で、人材…という観点で言えば、唐軍…という以上に秦王李世民の旗下に、中国史を代表する二人の豪傑が加わる事になりました。後の「門神」秦叔宝と、粗暴な割に後世民衆からの人気が高い程知節の二人です。

形としては唐軍への参加…なのですが、彼らに限らず李世民旗下の勇将智将達が、唐王朝という「国体」よりも李世民という「個人」に忠誠を誓っていた…事が、後に玄武門の悲劇につながった…という見方も出来ます。

そして、ここまでは一応順調に来た唐王朝は、この後建国以来最大の危機を迎えることになります。前回記事の中で既にその兆候が記されていますが、所謂「并州瓦解」「太原失陥」という危機と、劉武周という新たな強敵に彼らは直面する事になります。

そして、唐紀では初めて「義成公主」の名前が登場しました…隋の公主にして突厥の可汗に嫁いだこの女性…の存在が、故国を滅ぼした唐に対する彼女の憎悪が、後に歴史を大きく動かしていくのです。

資治通鑑卷一百八十七 唐紀三②

唐、多方面の敵と激突す

丙辰、劉武周は并州を包囲し、齊王の元吉はこれを拒んで撃退した。
戊午、太常卿の李仲文に命じ、兵を率いて并州を救援させた。

王世充の将軍である丘懷義は門下省の内に居住し、越王君度、漢王玄恕、将軍郭士衡を招いて妓妾を交えた宴会と賭博を行った。これを侍御史の張蘊古が弾劾した。世充は大いに怒り、近衛兵を命じて君度と玄恕を捕え、彼らの耳を数十回平手打ちした。また、彼らを東上閣に引き入れ、それぞれ数十回鞭打ちの刑を執行した。一方、丘懷義と郭士衡については問責しなかった。張蘊古には布百段を賞与し、太子の舍人に昇進させた。君度は世充の兄の子であった。

王世充は毎朝の朝廷で熱心に教訓を述べるが、その言葉は重複が多く、千差万別の話題に及んだため、侍衛たちは疲れ果て、百官も奏上の聞き取りに苦労した。これを見かねた御史大夫の蘇良が諫言して言った。
「陛下の御言葉は多すぎて要点を欠いています。ただ『そのようにせよ』と仰せいただければ十分です。何故このように多くの言葉を費やされるのでしょうか!」

世充はしばらくの間黙然としていたが、蘇良を罰することはなかった。しかし、彼の性格はこのようであり、結局改善することはできなかった。

王世充は何度も伊州を攻撃したが、総管の張善相がこれを防いだ。しかし食糧が尽き、援軍も到着しないまま、癸亥に城は陥落した。張善相は世充を口汚く罵倒した後に戦死した。この報を聞いた皇帝は嘆いて言った。
「朕は張善相に対して責任を果たせなかったが、善相は朕に対して責任を欠くことはなかった。」

帝はその子に爵位を授け、襄城郡公とした。

5月、王世充は義州を陥落させ、その後再び西済州を攻撃した。皇帝は右驍衛大将軍の劉弘基を派遣し、兵を率いて救援に向かわせた。

唐、西涼を平定す

李軌の将である安修仁の兄・安興貴は長安に仕えており、上表して請願した。「李軌を説得し、禍福を諭すべきです。」

皇帝は言った。
「李軌は兵を頼み、地形の険しさを恃み、吐谷渾や突厥と連携している。朕が軍を起こして彼を討つにしても、なお勝利を得られない恐れがある。どうして口先だけで屈服させられるだろうか?」

安興貴は言った。
「臣の家は涼州に代々住み、多くの民や異民族から信頼を得ております。弟の修仁は李軌から厚く信任されており、我が一族は李軌の近くにいる者が十数名おります。臣が赴いて李軌を説得すれば、彼が臣の言葉を聞き入れればもちろん良いことです。もし聞き入れなければ、彼の身近で謀を図ることは容易でございます。」

皇帝はこれを了承し、安興貴を派遣した。

安興貴が武威に到着すると、李軌は彼を左右衛大将軍に任じた。興貴は隙を見て李軌に説いた。
「涼州の地は千里に満たず、土地は痩せ、民は貧しい。今、唐は太原に起こり、函谷関と関中を制し、中原を掌握しました。戦えば必ず勝ち、攻めれば必ず奪るというのは、ほとんど天意であり、人の力ではありません。河西を挙げて唐に帰属させるべきです。そうすれば、かつての竇融(後漢初期に河西四郡を平定し、光武帝に帰順した)の功績が再び今日に甦るでしょう。」

しかし、李軌は言った。
「私は山河の要害に依拠している。彼らがいかに強大であろうと、私をどうすることもできまい。お前は唐から来た者で、唐のために遊説しているだけだ。」

興貴は謝して言った。
「私は聞きました。「富貴を得て故郷に帰らぬならば、美しい衣を着て夜道を歩くようなものだ」と。私の一族はすべて陛下の恩寵と俸禄を受けております。どうして唐に附くことがありましょう。ただ愚案を陛下に献じるのみであり、可否は陛下のご裁量にございます。」

その後、興貴は退き、密かに修仁と共に諸胡と結びつき、兵を挙げて李軌を討った。李軌は出陣して戦ったが敗北し、城に籠って自ら守りを固めた。興貴は城内に布告して言った。
「大唐は私を遣わし、李軌を討伐せよと命じた。これを助ける者は三族を滅ぼす!」

城中の人々は争って城を出て興貴に降った。李軌は窮地に陥り、妻子と共に玉女台に登り、酒を酌み交わして別れを告げた。

庚辰、興貴は李軌を捕らえて上聞し、河西の地はすべて平定された。

かつて李軌の使者として長安にいた鄧曉は喜び踊りながら祝賀の意を表した。皇帝は言った。
「汝は李軌の使臣でありながら、国の滅びを聞いて嘆かず、むしろ喜び、朕に媚び諂おうとする。李軌に対して忠を尽くさぬ者が、どうして朕に忠を尽くそうとするだろうか!」

皇帝は鄧曉を終身の流刑に処した。

李軌が長安に送られると、彼とその子弟はすべて処刑された。安興貴を右武候大将軍、上柱国、涼国公とし、帛1万段を下賜した。また、安修仁を左武候大将軍、申国公に任じた。

隋末、離石の胡族である劉龍児は兵数万を擁し、自ら「劉王」と称し、その子の季真を太子にした。虎賁郎将の梁徳がこれを討ち、龍児を斬った。その後、季真は弟の六児と共に再び挙兵して乱を起こし、劉武周の軍を引き入れて石州を攻め落とし、刺史の王儉を殺害した。季真は自ら「突利可汗」と称し、六児を「拓定王」とした。六児は隋に使者を送って降伏を申し出たため、詔により嵐州総管に任命された。

壬午、秦王李世民が左武候大将軍、使持節、涼・甘など九州諸軍事、涼州総管に任命された。太尉、尚書令、雍州牧、陝東道行台の職務は従前通り維持された。また、黄門侍郎の楊恭仁を派遣し、河西の安撫を命じた。

丙戌、劉武周が平陽を陥落させた。

王世充、皇泰主を殺害

癸巳、梁州総管、山東道安撫副使の陳政が麾下の者に殺され、その首は王世充に持ち込まれた。陳政は陳茂の子であった。王世充は礼部尚書の裴仁基と左輔大将軍の裴行儼が威名を持つことを恐れて忌み嫌っていた。裴仁基父子もこれを察して不安を抱き、尚書左丞の宇文儒童、儒童の弟で尚食直長の宇文温、散騎常侍の崔徳本と共に王世充とその一党を殺し、皇泰主を再び擁立しようと謀った。しかし、計画が漏れて彼らは三族皆殺しにされた。

斉王世惲は王世充に進言した。
「宇文儒童らの謀反は、皇泰主がまだ存命であるために起こったものです。早めに皇泰主を除去するべきです。」
王世充はこれに従い、兄の子である唐王仁則と家奴の梁百年を派遣し、皇泰主を毒殺させた。皇泰主は言った。
「太尉に再び確認してほしい。以前の約束によれば、このような事態には至らないはずだ。」

梁百年はその意を王世充に伝えようとしたが、世惲は許さなかった。また、皇太后と別れの挨拶をするよう求めたが、これも許されなかった。皇泰主は布を敷いて香を焚き、仏に礼拝して祈った。
「どうか来世は、二度と帝王の家に生まれませんように。」

毒薬を飲んだが死に至らなかったため、布を使って首を吊り自ら命を絶った。謚号は「恭皇帝」とされた。

王世充は兄である楚王世偉を太保に任じ、斉王世惲を太傅として尚書令を兼任させた。

六月庚子、竇建徳が滄州を陥落させた。

劉武周、宋金剛と盟を結ぶ

初め、易州(隋代の上谷郡)の賊帥である宋金剛は、兵士一万人余りを率い、魏刀児と同盟を結んだ。刀児は竇建德によって滅ぼされたが、金剛はこれを救おうとして戦いに敗れ、部下四千を率いて西へ逃れ、劉武周のもとに投じた。

武周は金剛が兵法に優れていることを聞きつけ、彼を得て大いに喜び、「宋王」と称して軍事を委ね、自らの財産を分け与えた。金剛もまた深く忠誠を誓い、以前の妻を離縁し、武周の妹を妻とした。そして武周に対し、「晋陽を攻め取り、南へ進軍して天下を争うべきです」と進言した。武周は金剛を西南道大行台とし、三万の兵を率いて并州を攻撃するよう命じた。

丁未、武周の軍勢は介州を脅かし、沙門の道澄が仏旗を用いて城内に侵入し、ついに介州を陥落させた。この事態を受け、左武衛大将軍姜宝誼と行軍総管李仲文に武周軍を討伐するよう命じた。

武周の将軍である黄子英は雀鼠谷を往来し、軽兵を用いて度々挑発した。唐軍は応戦したが、黄子英は戦うふりをして逃走を繰り返した。これが数度続き、姜宝誼と李仲文は全軍を率いて追撃したが、伏兵の罠に陥り、唐軍は大敗を喫し、宝誼と仲文は捕虜となった。その後、二人は逃げ戻り、再び武周討伐の軍を率いるよう命じられた。

己酉、突厥から使者が訪れ、始畢可汗の死を報告した。皇帝は長楽門で哀悼の意を表し、三日間朝会を停止した。また、百官に命じて館へ赴き使者を弔問させ、さらに内史舎人の鄭徳挺を派遣して処羅可汗を弔問し、絹三万段を贈った。

劉武周の侵略を憂慮した皇帝に対し、右僕射の裴寂が自ら遠征を請願した。

癸亥、裴寂を晋州道行軍総管に任じ、武周討伐を命じた。また、便宜に応じて対応する権限を与えた。

秋七月、初めて「十二軍」が設置され、関内の諸州府を分割してこれに所属させた。各軍の名称は天星に基づき、車騎府が統括した。各軍には将と副将が一人ずつ任命され、威名が高い者が選ばれた。これにより、農耕と戦闘が効率的に行われ、兵士と馬は精強となり、敵に勝ち続けた。

海岱の賊帥・徐円朗が数州の地をもって降伏を申し出たため、兗州総管に任じられ、魯国公に封じられた。

羅士信、唐に帰順す

王世充はその将軍である羅士信を派遣し、穀州を侵略させた。しかし、羅士信は千余人を率いて唐に降伏した。以前、士信は李密に従って王世充を攻撃したが、敗北して捕虜となり、王世充に取り込まれていた。王世充は士信を厚遇し寝食を共にしたが、後に邴元真らをも同様に遇したため、士信はこれを恥じた。さらに、世充の甥である趙王道詢が士信の馬を欲しがり、与えなかった士信から世充が馬を奪い道詢に与えたことに憤慨し、唐に降った。皇帝は士信の降伏を聞き、非常に喜んで使者を派遣して労い、絹五千段を賜り、士信を陝州道行軍総管に任じた。これに続き、世充の部将である席弁や楊虔安、李君義も各々の部隊を率いて唐に降った。

丙子、王世充は郭士衡を派遣して穀州を攻撃させたが、刺史の任瑰がこれを大破し、敵軍をほぼ殲滅した。

甲申、行軍総管の劉弘基は種如願を派遣し、河陽城を襲撃し、河橋を破壊して帰還した。

乙酉、西突厥の統葉護可汗と高昌王麴伯雅がそれぞれ使者を派遣し、貢ぎ物を献上した。

西突厥の曷娑那可汗は隋に入朝した(『隋書』巻181、煬帝大業7年に記述有)。隋の人々は曷娑那可汗を留め置き、その国人たちは曷娑那可汗の叔父を推戴して射匱可汗と号した。射匱とは、達頭可汗の孫である。射匱可汗が即位した後、領地を拡大し、東は金山、西は海まで至った。そして北突厥と敵対し、龜茲の北にある三弥山に宮殿を築いた。

射匱が亡くなると、その弟である統葉護が後を継いだ。統葉護は勇敢で知略に富み、北方の鉄勒を平定し、弓兵数十万を擁して烏孫の旧領に拠り、さらに宮殿を石国北部の千泉に移した。西域の諸国は皆彼に従い、統葉護はそれぞれの国に「吐屯」を派遣して監視させ、その税賦を督促した。

辛卯、宋金剛は浩州を侵略したが、10日足らずで撤退した。

隋の恭帝崩ず

8月丁酉、酅公が薨去し、隋の恭帝と諡された。後継者がいなかったため、族子の行基がその地位を継いだ。

竇建德は兵10万余りを率いて洺州を攻め、淮安王の李神通は諸軍を率いて相州に撤退して守備を固めた。己亥には建德の軍が洺州城下に到達した。

丙午、将軍秦武通の軍が洛陽に到達し、王世充の配下である葛彥璋の軍を撃破した。

丁未、竇建德は洺州を陥落させ、総管の袁子幹は降伏した。

乙卯、建德は兵を引き連れて相州に向かい、李神通はこれを聞いて軍を率いて黎陽で李世勣と合流した。

梁師都は突厥と結託し、数千騎で延州を襲撃した。行軍総管の段德操は兵力が少なく対抗できなかったため、城壁を閉ざして守りを固めた。師都が油断している隙を見計らい、9月丙寅に副総管の梁礼を派遣し、兵を率いて攻撃させた。

師都の軍が梁礼と激しく戦っている最中、段德操は軽騎兵を率いて多くの旗を掲げながら敵の背後を奇襲した。これにより師都の軍は大敗し、敗走する敵を200里以上追撃して魏州を破り、男女2000人余りを捕虜にした。

蕭銑は将軍楊道生を派遣して峽州を攻撃させたが、剌史の許紹がこれを撃破した。蕭銑はさらに将軍陳普環を派遣し、水軍を率いて長江を遡り、巴蜀を攻略しようと図った。しかし許紹は、自身の子である許智仁および録事参軍の李弘節を派遣して追撃させ、西陵にてこれを撃破し、陳普環を捕らえた。

蕭銑はさらに兵を送り、安蜀城および荊門城を守備させた。

以前、皇帝は開府の李靖を派遣して夔州に赴かせ、蕭銑の討伐計画を進めさせた。李靖は峽州に到着したが、蕭銑の軍によって足止めされ、長い間進軍できなかった。皇帝は李靖の遅延に怒り、密かに許紹に命じて彼を斬首するよう指示した。しかし、許紹は李靖の才能を惜しみ、その命を救うよう奏上して許しを得た。

己巳、竇建德は相州を陥落させ、刺史の呂鈱を殺害した。

劉文靜、誅殺さる

民部尚書の魯公劉文靜は、自分の才能や功績が裴寂を凌駕すると考えながらも、その地位が裴寂より下にあることに大いに不満を抱いていた。朝廷で議論が行われるたびに、裴寂が正しいとする意見には必ず反対し、たびたび裴寂を侮辱したため、両者の間に隙間が生じていた。劉文靜は弟である通直散騎常侍の劉文起と酒を酌み交わし、酔いが回ると不満を口にした。刀を引き抜いて柱を打ち、「必ずや裴寂の首を斬るだろう!」と言い放った。

家ではたびたび怪異が発生し、劉文起は巫を呼び、星の下で髪を乱し、刀を口に咥えて厭勝を行わせた。劉文靜には寵愛を受けない妾がおり、その兄を使って朝廷に密告させた。皇帝は劉文靜を官吏に託し、裴寂と蕭瑀を派遣してその状況を尋ねさせた。劉文靜は次のように述べた。

「建義の初め、私は司馬として任命され、長史とほぼ同等の地位にあると考えられました。しかし、今や裴寂は僕射となり、邸宅も立派である一方で、私の官職と恩賞は他の者と変わりありません。さらに東西へ戦場を転々とし、老母を京師に残しましたが、雨風を避ける場所もありません。このため、不満の念が生じ、酒に酔って愚痴をこぼしただけで、自分を制御できなかったのです。」

皇帝は群臣に向かって言った。

「劉文靜のこの発言を見れば、反逆の意図は明らかである。」

しかし李綱や蕭瑀は、彼が反逆を企んでいないことを明らかにし、秦王李世民は彼のために強く弁護して言った。

「かつて晋陽にいた頃、劉文靜は非常の策を最初に定め、まず裴寂に告げて知らせました。京城を攻略した後、両者の待遇に差が生じたため、劉文靜が不満を抱くことはあり得ますが、反逆を謀ることは決してありません。」

裴寂は皇帝に言った。

「劉文靜の才能や戦略は確かに同時代の人々の中でも抜きん出ていますが、その性格は粗暴で危険です。現在、天下がまだ安定していない中で彼を留めておけば、将来必ず災いを招くでしょう。」

皇帝は元々裴寂を信頼しており、この意見に心が揺れ、長い間迷った末、最終的に裴寂の進言を採用した。そして、辛未の日に劉文靜と劉文起を罪に問うて死刑とし、その家族は財産を没収された。

沈法興はすでに毘陵を攻略しており、江淮地方の南部は指揮をとればすぐに平定できると考え、自ら梁王を名乗った。毘陵を都と定め、元号を「延康」と改め、官僚組織を整備した。しかし彼は残忍な性格で、専ら威圧と刑罰を重視したため、部下が小さな過ちを犯すたびに即座に処刑し、その結果、部下たちの不満が高まり離反する者が続出した。

この時、杜伏威は歴陽を拠点に、陳稜は江都を拠点に、李子通は海陵を拠点に、それぞれ江南の支配を目指していた。

沈法興の軍は度々敗北し、一方で李子通は陳稜を江都で包囲した。陳稜は人質を差し出して沈法興や杜伏威に援軍を要請した。沈法興は息子の沈綸を指揮官として数万の兵を率いさせ、杜伏威と共同で陳稜を救援するよう命じた。杜伏威は清流に駐軍し、沈綸は揚子に駐軍したが、両軍は数十里の距離を保っていた。

并州瓦解

裴寂は介休に到達したが、宋金剛が城に立てこもって防衛した。裴寂の軍は度索原に布陣し、陣中では山間の小川の水を飲んでいたが、宋金剛がその水源を断ったため、兵士たちは渇きに苦しんだ。裴寂は陣地を移して水に近づこうとしたが、宋金剛が兵を繰り出して襲撃し、裴寂の軍はついに崩壊した。兵士の多くが失われ、裴寂は一昼夜駆け続けて晋州にたどり着いた。

それ以前、劉武周はたびたび兵を派遣して西河を攻めていたが、浩州の刺史である劉贍がこれに対抗していた。李仲文が兵を率いてこれに合流し、共に西河を守った。しかし、裴寂の敗北により、晋州から北の城と拠点はすべて失われ、西河のみが残った。姜宝誼は再び宋金剛に捕えられたが、脱走して帰還しようと企てたため、宋金剛に殺された。

裴寂は上奏して謝罪した。皇帝は彼を慰め、再び河東を鎮撫するよう命じた。

劉武周はさらに進軍して并州を脅かした。斉王の李元吉は司馬の劉徳威を欺いて言った。
「そなたは老兵と弱兵で城を守り、私は精鋭を率いて出撃しよう。」

辛巳の日、李元吉は夜間に軍を出撃させ、自分の妻妾を連れて州を放棄し、長安に逃げ帰った。元吉が去った直後、劉武周の軍はすでに城下に到達しており、晋陽の土豪である薛深が城を開いて劉武周を迎え入れた。これを聞いた皇帝は大いに怒り、礼部尚書の李綱に向かって言った。
「李元吉は幼く未熟であり、時勢にも通じていない。そのため、竇誕と宇文歆を派遣して補佐させたのだ。晋陽には数万の精鋭がいて、食糧も10年は持ちこたえられる。王朝の基盤となる地を一朝にして失うとは何事だ!宇文歆がこの策を提案したと聞いている。斬刑に値する!」

李綱は答えた。
「斉王は若く、しかも驕慢な性格です。竇誕は諫言もせず、むしろ彼を庇い隠して士民を憤らせました。このたびの敗北は竇誕の責任です。宇文歆は王を諫めましたが、王は聞き入れず、その内容はすべて皇帝に報告されました。彼は忠臣であり、どうして処刑することができましょうか!」

翌日、皇帝は李綱を召し、玉座に登って言った。
「公のおかげで、朕は濫刑を免れた。元吉の不徳が原因であり、二人が抑えることができる範囲を超えていたのだ。」
そして、竇誕も宇文歆も赦免された。

衛尉少卿の劉政会は太原にいたが、劉武周に捕らえられた。政会は密かに使者を送り、劉武周の軍事状況を報告した。劉武周は太原を占拠し、宋金剛を派遣して晋州を攻め落とし、右驍衛大将軍の劉弘基を捕えた。しかし、弘基は逃げ帰った。宋金剛はさらに進軍して絳州を包囲し、龍門を攻略した。

西突厥の曷娑那可汗は北突厥と対立していた。曷娑那は長安に滞在していたが、北突厥は使者を送り、彼を殺すよう要請した。しかし、皇帝はこれを許さなかった。群臣は皆こう言った。
「一人を保護して一国を失えば、後に必ず災いをもたらします!」

秦王の李世民はこう言った。
「困難に陥った者が我々に帰順してきたのに、これを殺すのは義に反します。」

皇帝は長らく逡巡したが、ついに止むを得ず、丙戌の日に曷娑那を内殿に招いて宴を催し、その後、中書省に送って北突厥の使者に殺させた。

皇太子李建成と秦王李世民の確執

礼部尚書の李綱は太子詹事を兼任した。太子李建成は当初、彼を非常に礼遇した。しかし、次第に小人たちと親しくなり、秦王・李世民の功績の高さを妬み、互いに猜疑するようになった。李綱は幾度も諫めたが、建成は耳を貸さなかったため、遂に辞職を願い出た。

皇帝は彼を叱責して言った。
「卿は何ゆえに潘仁の長史を務めることは良しとし、朕の尚書を務めることを恥じるのか。卿には建成を補佐させようとしているのに、それを固辞するのはどういうことだ!」

李綱は額を地につけて答えた。
「潘仁は賊であり、妄りに人を殺そうとした時、臣が諫めるとそれを止めました。その長史であったことは、愧じるに足りません。しかし陛下は創業の明君でありながら、臣の不才ゆえ、申し上げたことが水を石に投じるように何の効果もありませんでした。太子に諫めても同じことでございます。臣がどうして長く尚書省や東宮を辱めるようなことをできましょうか!」

皇帝は言った。
「公が正直な士であることは知っている。どうか留まって我が子を補佐してくれ。」

戊子、李綱は太子少保に任じられ、尚書と詹事も引き続き務めた。彼は再び太子に、酒を節度なく飲むこと、讒言を信じること、兄弟間の関係を疎遠にすることを諫めたが、太子は不機嫌になり、行いは変わらなかった。李綱は鬱々として志を果たせず、この年、老病を理由に辞職を固辞し、皇帝は尚書を免じたが、少保として留任させた。

淮安王・李神通は慰撫使・張道源を趙州に派遣した。

庚寅、竇建徳が趙州を攻略し、総管の張志昂と張道源を捕らえた。建徳は彼らと邢州刺史・陳君賓を早々に降伏しなかったことを理由に処刑しようとした。これに対し、国子祭酒・凌敬が諫めて言った。
「臣下はそれぞれの主君のために尽くすものです。彼らが堅守して降伏しなかったのは、忠臣ゆえの行いです。大王が彼らを殺せば、どうして部下たちの士気を高められましょうか!」

建徳は怒って言った。
「我が軍が城下に至ったのに、彼らはなお降伏せず、力尽きて捕らえられたのだ。どうして許せるか!」

凌敬は答えた。
「もし大王が高士興に命じて羅藝を易水で阻ませた際、羅藝が到着するや否や士興が降伏したとしたら、大王はそれをどうお考えになりますか?」

建徳はようやく悟り、命じて彼らを釈放した。

乙未、梁師都が再び延州を侵略したが、段徳操がこれを撃退し、2000以上の首級を挙げた。梁師都は百余騎を連れて逃亡した。段徳操は功績により柱国に昇進し、平原郡公の爵位を賜った。一方、鄜州刺史である鄜城壮公・梁礼は戦死した。

冬十月己亥涼州総管・楊恭仁に納言の称号が加えられた。幽州総管・燕公の羅藝には李氏の姓が賜られ、燕郡王に封じられた。

辛丑、李藝が竇建徳を衡水で撃破した。

癸卯、左武候大将軍・龐玉が梁州総管に任じられた。この頃、集州の獠族が反乱を起こし、龐玉がこれを討伐した。獠族は険しい地形に立てこもり、軍勢は進軍できず、糧食も尽きかけていた。熟獠は反乱者と親族関係にあったため、「賊を攻撃するのは不可能」と述べ、龐玉に撤退を求めた。龐玉は言い放った。
「秋の収穫が熟しても、百姓は収穫するな。すべて軍に供給させる。賊を平定しない限り、私は戻らぬ。」

この言葉に人々は恐れおののき、「大軍が去らなければ、我々は餓死するだろう」と語り合った。その中の壮士たちは賊営に潜入し、親族と密かに謀り、賊の首領を斬り降伏した。残党は散り、玉が追撃して全てを平定した。

唐、各戦線で敗北す

劉武周は宋金剛を率いて澮州を攻撃し、これを攻略した。その軍勢は非常に勢いがあった。裴寂は臆病な性格で、指揮官としての才略に欠けていた。ただしきりに使者を派遣し、虞州と泰州の住民を城塞に収容させ、蓄えを焼き払わせた。この結果、民衆は驚きと混乱の中で恨みを募らせ、多くが盗賊となることを考えるようになった。

夏県の住民である呂崇茂は人々を集め、自ら魏王を称して劉武周に呼応した。裴寂は彼を討伐したが敗北した。皇帝は永安王の李孝基、工部尚書の独孤懐恩、陝州総管の于筠、内史侍郎の唐儉らに命じ、軍を率いてこれを討つよう指示した。

その頃、王行本は依然として蒲坂を拠点にしており、未だ降伏せず、劉武周と呼応していた。これにより関中は震撼した。皇帝は手書きの命令を発し、「賊の勢いはこのように盛んであり、直接対決するのは難しい。よって、大河(黄河)以東を放棄し、慎重に関西を守るべきである」と述べた。

しかし秦王李世民はこれに反論し、「太原は王朝創設の基盤であり、国の根本です。河東は物資が豊かで、都城に必要な供給源でもあります。もしこれらを放棄するのであれば、私は非常に悔しく思います。願わくは私に精鋭3万の兵を与えれば、必ずや劉武周を討伐し、汾州と晋州を取り戻すことを誓います」と上奏した。

皇帝はこれを受け入れ、関中の兵を全て動員して李世民の指揮下に置き、劉武周を攻撃させた。乙卯の日、皇帝は華陰に出向き、長春宮で李世民を送り出した。

一方、竇建德は兵を率いて衛州に向かった。建德は常に三列に分けて行軍し、物資や弱者を中央に置き、歩兵と騎兵を左右に配置していた。その間隔は約2里であった。建德は千騎を率いて先行し、黎陽から30里の地点を通過した。これを察知した李世勣は丘孝剛を偵察に派遣し、200騎を率いさせた。

孝剛は勇猛で馬槍を得意とし、建德に遭遇すると戦闘を挑み、建德を敗走させた。しかし建德の右側部隊が孝剛を救援し、孝剛を討ち取った。建德は激怒し、黎陽に引き返して攻撃を行い、これを陥落させた。そして淮安王の神通、李世勣の父李蓋、魏徴、および皇帝の妹である同安公主を捕虜とした。李世勣だけは数百騎を率いて黄河を渡り逃れたが、父を人質に取られていた為、数日の後、建德の元に戻り降伏した。

衛州も黎陽の陥落を聞いて降伏した。建德は李世勣を左驍衛将軍に任じて黎陽を守らせ、その父李蓋を人質として手元に置いた。魏徴を起居舎人に任じた。滑州刺史の王軌の召使いが王軌を殺害し、その首を建德に献上して降伏を申し出た。建德は「召使いが主人を殺すのは大逆である。どうしてこれを受け入れようか!」と言い、その場で召使いを処刑し、首を滑州に返還した。この対応に官吏と民衆は感銘を受け、その日のうちに降伏を願い出た。このようにして周辺の州県や徐円朗らも次々と降伏した。

己未の日、建德は洺州に戻り、万春宮を築いてそこに都を移した。淮安王神通を下博に置き、賓客として礼遇した。

また、行軍総管の羅士信は勇士を率いて夜間に洛陽の外郭に侵入し、清化里に火を放って撤退した。壬戌の日、羅士信は青城堡を攻略した。王世充は自ら兵を率いて滑台に進軍し、黎陽に臨んだ。尉氏の城主時徳睿、汴州刺史王要漢、亳州刺史丁叔則らは使者を派遣して降伏を申し出た。王要漢は王伯当の兄であった。

夏侯端が黎陽に至った時、李世勣が兵を派遣してこれを護送し、澶淵から黄河を渡り、檄文を州県に伝えた。その影響は東は海まで、南は淮水まで及び、二十余州が使者を派遣して唐に帰順した。その後、端は譙州に到着したが、汴州や亳州が王世充に降伏したため、帰路が断たれた。

端は元々民衆の信頼を得ており、同行していた者は2,000人にのぼった。食糧が尽きても仲間を捨てて立ち去ることはできず、湿地に腰を下ろして馬を屠り、その肉を兵士たちに振る舞った。端はすすり泣きながら言った。

「皆の故郷はすでに敵に従ったが、共に事を成そうという情で私についてきた。私は天子の命を受けている身ゆえ、仮に諸君が去ろうとしても従うことはできない。しかし君たちは家族を抱えているのだから、私に倣ってはならない。どうか私の首を斬って敵に差し出し、富貴を得るがよい。」

これを聞いた部下たちは涙を流しながら答えた。

「あなた様は唐王朝に血縁があるわけではなく、ただ忠義の心からその命を顧みないのです。我々は身分が卑しいながらも、人としての心は同じです。どうしてあなたを害して利益を得ようとするでしょう!」

端は「君たちが私を殺すのを忍びないのなら、私が自ら命を絶つのみだ。」と言って自害しようとしたが、部下たちは彼を抱きとめて制止し、再び進むこととなった。五日間潜伏しながら進むも、飢えや敵の襲撃で半数以上が散り散りとなり、わずか53人がともに生き延びた。彼らは野生の豆を採って食べるなどして命をつないだ。

端は節を片時も手放さず、たびたび部下に散って自力で生き延びるよう命じたが、誰もその命に従わなかった。この頃、河南一帯はすでに王世充の支配下に入っていたが、杞州の刺史である李公逸のみが唐王朝のために堅守しており、兵を派遣して端を迎え、宿所と食事を提供した。

一方、世充は使者を送り、端に対して服従を促し、衣服と任命書を送り、淮南郡公および尚書少吏部に任じた。しかし、端はこれに対し書を燃やし衣服を破り捨てて言った。

「私は天子の使者である。どうして王世充の官職を受けられようか!私を迎えたいなら、首を取るほかない!」

端は節を懐にしまい、刃を杖の先に付け、山中を西に向かって逃げた。道らしい道もなく、荊棘をかき分けながら昼夜兼行で宜陽にたどり着いた。その途中、部下たちは崖から転落したり川に溺れたり、虎や狼に襲われたりして半数以上が命を落とした。生き残った者たちは髪も禿げ落ち、もはや人間らしい姿ではなかった。

端は洛陽の宮廷に参内して皇帝に謁見し、自らの功績がないことを謝罪したが、苦難については一切語らなかった。皇帝は端を秘書監に任じた。

一方、郎楚之も山東に赴いたが、竇建德の捕虜となった。しかし楚之は屈せず、最終的に帰還を果たした。

王世充は従弟の世辯を派遣し、徐州と亳州の兵を率いて雍丘を攻撃した。李公逸は使者を送り援軍を求めたが、唐軍は敵地を隔てていたため救援は不可能であった。そこで公逸は部下の李善行を雍丘に残して守らせ、自らは軽騎兵を率いて入朝しようとしたが、襄城で世充の配下である伊州刺史張殷に捕らえられた。

世充は公逸に尋ねた。「お前は鄭を捨てて唐に仕えているが、その理由は何だ?」
公逸は答えた。「私は天下において唐のみを知り、鄭の存在を知らない。」
これに怒った世充は彼を斬り殺した。善行もまた戦死した。皇帝は公逸の息子を襄邑公に封じた。

甲子の日、皇帝は華山に赴き、岳祠で祭祀を行った。

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