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「人間の生」を撮った写真家 レネ・マリー・フォッセン

9月10日にNHKで放送されたドキュランドへようこそ選「セルフポートレート―拒食症を生きる―」の録画を観た。番組そのものは、昨年11月に放送されたもののアンコールだったようだ。

ノルウェーの原題(2020)は”Self Portrait"となっており、サブタイトルは付いていない。

番組の本放送時も今回も、写真家レネ・マリー・フォッセン(Lene Marie Fossen)のことは何も知らなかった。

レネが拒食症になったのは10歳の頃だったらしい。”子どものままでいたい。大人になりたくない”という思いから、食事の量を減らしていったと語っていた。

レネは「時を止める」ために写真を撮り始めたようだ。彼女が撮るのは、自分自身を含めた人間そのもの。齢100を超えた女性や、難民となった子ども。私には、レネが「人間の生」そのものの瞬間瞬間を映しているように思えた。1秒後には変わってしまう、生の瞬間を確かに残すための写真のような気がした。

レネは、自分が拒食症の女性(病気の女性)と表象されることを拒み「私は写真家です」と言う。その一方で、彼女と拒食症の切り離しは不可能であり、レネ自身(拒食症であることが)つらいとも語っていた。

私は引き裂かれている。治りたいと思う一方で、病気を手放すのが怖い。
(拒食症になれば)『解決』すると思ったが、『問題』になってしまった。

いずれも精確ではないが、彼女の語りで特に印象に残った言葉だ。


レネは写真家になるために拒食症になったのではないし、それを発症したから写真家になったわけでもない。正確に言えば、拒食症の発症と写真家として生きることは密接に関係しているが、この二つは直線的に結ばれるものではないと思う。

拒食症であることが先立つ(アプリオリなもの)が、ゆえに彼女が写真を撮るわけではない。”拒食症 レネ・マリー・フォッセン”の生(の瞬間)を”写真家 レネ・マリー・フォッセン”が撮るというように、主体と客体が同一でありながら、二つは分離しているのである。この解釈が正しいか否かの判別はできない。だが、私はそう感じた(人の名前の前に、病名を付すのは不本意であることを記しておく)。


ドキュメンタリーなので、レネが自分自身を撮影する場面も頻繁にあった。そこで曝される彼女の裸体は鮮烈だった。私は、彼女の裸体を表現する言葉を持っていない。撮影当時28歳(2014年)だが、生理の経験はないと語っていた。あの身体では、それが無くて当然である。

セルフポートレートの個展に訪れた幾人かは、レネの写真を観て「力強い」という言葉を残していた。確かに、レネの姿は鮮烈で観る者に与える「何か」も、強烈だ。「力強い」という表現もできるだろう。しかし、私はその言葉にひっかかった。

レネ自身は「美」の表現にこだわり、撮影場所やそこに降り注ぐ光を大切にしていた。廃墟に差し込む光で撮られ、黒白で上がってくるレネの姿は、手放しで美しいと言いかねるものだと感じた(ノルウェーを代表する写真の大家も「好き嫌いはある」と述べていた)。

さりとて、「醜の美」とも異なる(気がする)。レネは拒食症にむしばまれた身体を美化し、「醜の美」へと昇華させたのではないと思う。彼女がセルフポートレートを通して表したかったのは「人間の生の美しさ」ではないか。”生きていることは美しい”といった抽象的なものではなく(そういう考え方も、もちろんあるが)「物質的(身体的)に生きている人間の美しさ」を残しておこうとしたのではないだろうか。だから、レネは拒食症そのものの美化はしていない。だが、どんな身体の人間の生にも「美しさ」を見ることができる(できた)人だと思う。


がん患者は同情されるが、拒食症は甘えだと言われる。

ただ食べればいいと言われるが、それがつらいというようなことも、レネは話していた。彼女の言葉通り、レネは好きで拒食症になったのではない。事実、交通事故の後遺症を恐れて、さらにそれが加速したことによる強制入院の折、食べられない自分を責める彼女がいた。

レネは拒食症になったことに絶望したのではなく、写真が撮れないことに絶望していた。写真を撮ることで生きていたレネが病院に居たくないと語った時、彼女は死んでいたのだと思う。人間、希望を失えば死ぬのだということを初めて(画面越しに)目の当たりにした。

レネは生きるために写真を撮り、また生きるために拒食症になった。そして、拒食症の生を最後まで生きた。

「望むまま生きることは難しい」と語っていたように、レネは叶うなら「拒食症にならずに、大人にならないこと」を選んだだろう。大人にならないための『解決策』として選んだ拒食症が『問題』になったとは、これを指しているのだろう。

彼女は2019年10月、その生涯を閉じた。

拒食症 レネ・マリー・フォッセンではなく、写真家 レネ・マリー・フォッセンの生を全うしたことを祈る。

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