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カミングアウト(告白)と正常/異常

ある方のnoteを拝読していて、前々からの疑問が再燃した。断っておくが、その方がお書きになった内容に疑問が生じたのではない。むしろそれに深く頷く部分があったからこそ、再度あることを疑問に思うのである。

”カミングアウト”とは何なのか。より精確に疑問を言葉にするならば「なぜ『カミングアウト』は少数派がおこなうものとされているのか」である。

こういう場合に辞書を引用するのは”カッコ悪い”と言われたことがあるし、実際にそうだと思うが、敢えて、広辞苑 第六版(電子辞書)を引いてみた。

 ”カミング-アウト”【coming out】:coming out of closet(クロゼットから出てくるという意味から)同性愛者が隠していた性的指向を表明すること。自らが少数派に属すると公表すること。転じて、告白すること。

広辞苑がそうであるように、ひとまずはセクシュアリティとカミングアウトに沿って話を進めるが、私の関心はカミングアウトそのもの(全般)にあると記しておく。それに加え、以後「カミングアウト」という言葉は、特に断りのない限り「告白」に置き換えることとする。

ミシェル・フーコー(Michel Foucault)によれば、西欧においてセクシュアリティと告白が結びついたのは、1850年頃だとされる(突然のフーコー登場だが、私は生業の方で”フーコーLover”と目されているし、彼の業績なしには何も書けない)。

17世紀から18世紀には圧迫(検閲や抑圧)の対象であると見なされてきたセクシュアリティが、「黙されるものでも黙されるべきものでもなく、逆に告白すべきもの」になったのである(フーコー 2002: 185)。

フーコーの想像によれば「セクシュアリティについての沈黙の法則は、17世紀になって初めて(いわば資本主義社会が形成される時代に)出現したのであり、そしてその前は、誰もがセクシュアリティについて何でも語ることができた」とされる(フーコー 2002: 186)。しかし、そのような比較的自由な中にも「きわめて厳格」な「セクシュアリティの告白の手続きがあ」ったと言う(フーコー 2002: 186)。

フーコーの関心は「どのような条件のもとで…セクシュアリティの告白という義務的で強制的な言説の一つの形態が、セクシュアリティに関する言説の中心に組織されたのか」にあった(フーコー 2002: 187)。フーコーは講義の序盤で既に「セクシュアリティの告白」が「義務的で強制的」であると言い、かつそれが「セクシュアリティに関する言説の中心に」あると述べている。すなわち、セクシュアリティの(に関わる)告白は、最初から義務として強制的になされるものだったのである。

フーコーは、これ以降、身体(肉)と告白、告白と沈黙の関係を考えていくが、論文ではないのでそこは省く。

身体/子どもの身体(肉)とセクシュアリティとが、教会や医学や家庭の問題となったのは、それらが異常性と結びつくからである(たとえば、ソドミーや自慰行為など)。

フーコーは別の書(『知への意志』)で、同性愛者について「性懲りもない異端者」と記している。ホモセクシュアル(Homosexual)とは「性の一つの規範に対して逸脱した行動をとる者を名づける言葉であり、それ以上のものではなかった」。しかし「19世紀以来、……ある人物が同性愛的な行動をとるゆえにその者を同性愛者と呼ぶのではなく、……それはその者がその『本性』において同性愛者」なのだと見なされるようになったとされる(慎改 2002: 400)。

ここにあるのは、社会的規範に適わぬ行動をとる個人のうちに、そうした行動を可能にする一つの……「本性」における一つの異常が想定され、それによってその個人が種別化される、というプロセスであるが、このプロセスこそまさしく、……「正常化=規範化(normalisaion)の権力」によってもたらされる効果……に他ならない。行動の規範と機能の正常化とを「ノルム(norme)」という語の二重の意味に重ね合わせつつ、「正常化=規範化の権力」は、……あらゆる「異常な」行動の背景に、……一つの「異常性」を算出する(慎改 2002: 400)。

つまり、同性愛は異性愛(Heterosexual)という社会規範から逸脱するものであり、同性愛者はその「異常性」によって、また「正常化=規範化」から外れる者であるからこそ、”異常者”とされるのである。そして、その「異常性」を「告白」することによって、医学の(矯正や管理の)対象となるのである。

これ以上、フーコーに則ると普段書いているものと酷似する(もう既にそのような気分だが)ので、冒頭の疑問に戻る。

結局のところ、フーコーの歴史に沿った分析が今でも変わらずに通用するということである。異性愛が「正常」とされるからこそ、同性愛は「隠すべき」ものになるのである。今日、同性愛は医学の対象からは外れているが、異常と見なされることが多々ある点は変わりない。

カミングアウト(告白)が少数派に(のみ)求められるのは、そのことが「異常である」と目されているからである。「異常」を告白する(認める)ことによって「正常」への道が開ける。規範(「正しい」とされているもの)に則ることができるようになる。

つまり、「正常化=規範化(normalisation)の権力」は、現代の社会において活きているということである。殊、日本においてはその権力の働きが強いと思う。セクシュアリティのみならず、障害や疾患、「正しい女性」「正しい男性」等、とにかく「正常」と「異常」を区別する。

本当に必要なのは「正常」と「異常」が何を意味するのか、問い直すことだと考えるが、常にそれが欠落しているのである。


参考文献

Foucault, Michel, 1976,  Histoire de la Sexulaité I, La Volonté de Savoir, Paris : Gallimard.(渡辺守章訳,1986,『性の歴史Ⅰ 知への意志』新潮社.)

――――, 1999, Les anormaux. : cours au Collège de France, 1974-1975, Paris : Gallimard.(慎改康之訳,2002,『異常者たち : コレージュ・ド・フランス講義1974-1975年度』筑摩書房.)

慎改康之,2002,「訳者解説」『異常者たち : コレージュ・ド・フランス講義1974-1975年度』筑摩書房.

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