『シャイン』におけるノーマライゼーションの様相、およびピアノの呪い
ネタバレあります。
映画『シャイン』の主人公はラフマニノフの弾きすぎでぶっ倒れる。そののち何かのメンタル疾患になってしまって病院で暮らしているのだったが、町へ出た際に場末のバーのピアノを超絶技巧で弾きこなして「あいつヤベェ」となって注目すべき人物になる。のち結婚もする。なんだか幸せになっているようだ。トランポリンで跳んでいるのがパッケージの表紙にもなっている場面である。
で、全体を通して主人公がほとんど差別に遭ってないあたりがこの映画の特徴かもしれない。この人は疾患にかかってからは言葉がうまく使えていないし、ちょっと得体の知れないところはある。でも周りはせいぜい苦笑いをする程度であって、基本的に優しく扱っている。そういうものなんでしょうか。ノーマライゼーションという考え方がありつつ、それが正しく適用されればこの主人公のように幸せになれるか。ピアノが鬼のようにうまいことで有利になってるけど、ハンデのある他の人々の場合はどうなんだろうな。そこは優しい世界なのかね。
しかしここまでピアノに振り回される人というのも珍しい。いや珍しくもないのか、音楽をやってたらよくあることでもありそうだが、ちょっと極端なのは主人公の父親だろうな。あの父親の愛情は支配するタイプのそれでしょう。主人公を自分の思い通りにしたいっていうね、歪んでるし激しいんですけど。異常ですけど。しかしながらピアノの英才教育を施したのもその父親だったので、まったく因果なもんだとしかいえない。業が深い。呪いのようになってんじゃん。
ピアノの白鍵と黒鍵、あたくしのような素人が見てみればただ白黒のしましまめいたものでしかない。でもこれを操ることに喜びを得たり、あるいはよからぬ形で囚われたり、もろもろ大変なことが幾つも幾つもこの世にはあったんだろうと思うなら果てしない話。