7/7 ナニコレ新感覚
▼目次
・バーチャルYouTuberとは?(届木ウカ氏のバーチャルYouTuber論より)
・彼らはキワモノなのか?慧眼を持つ先駆者か?それとも・・
・理解できなくても拒否しないこと
バーチャルYouTuberについて調べていたら、ユリイカ」の特集に行き着いた。
・届木ウカ氏のバーチャルYouTuber論
届木ウカ氏が書いていた「個人バーチャルYouTuberという『自身のイデア』 自己の再出産と魂の交歓」を読んで得た新感覚について書き残しておきたい。
届木氏はバーチャルYouTuberの生い立ちについて下記のようにまとめていた。
・美少女のイデアを自分を依り代に顕現させる降霊師
・個人バーチャルYouTuberを見て初めて自身のトランス願望に気づいた元
男性の美少女
・他者に汚された肉の檻を完全に捨てて傷つかない電子生命体になりたい女
性
・失った娘を電子生命体として取り戻そうとする父親
表現が独特なのでスッと入ってこない人もいるかと思うが、是非一度想像してみてほしい。上記の人たちはどんな人なのか?と。
日清が広告にも活用し始めて一般化しつつあるバーチャルYouTuber。「バーチャルYouTuberとは何か?」という問いを誰もが持つと思うが、その問いに対して届木氏は以下のように答えていた。
『バーチャルYouTuberとは何か?』という定義を狭めたがる論者の存在が無粋な程に、バーチャルアバターの『なんでもあり』主義は幾千人の『魂の解放』を担っている。(途中省略)。そんな僕達を、肉の檻の民は時に嘲笑し『現実を見ろ』と罵る。人間は誰しも、あまりにも自身の知識が通用しない世界は恐怖から忌避し、自身に分かる言語で語って納得してしまおうとする。
恐らく届木氏は一般人には理解されない(理解しようとしない)と諦めているのではないか。
そして届木氏は独特な”肉の檻”という表現についてこう書いている。「『うみねこの鳴く頃に』で魔女ではない人間の体、物理法則や生まれ持った性質から逃れられない窮屈な体を指す言葉で、自分はアバターを持たない人のことをこう呼んでいる」
正直アニメには疎い人間なので「うみねこの鳴く頃に」がどんな作品かは分からないのだが、これを単なる”イタイ発言”として切り捨てるのは起きていることを理解するのに誤った反応なのではないかと思ってしまう。
・彼らはキワモノか?慧眼を持つ先駆者か?それとも・・
バーチャルYouTuberと聞くと、まずヒカキンのようなYouTuberを想像する。新領域でビジネスを始めて一旗揚げてやろう!と息巻いている様子だったり、タレント予備軍志望者のような目立ちたがり?な人たちが真っ先に思い浮かぶ。
しかし、”生まれ持った性別や年齢や職業、身体的ハンデ、そういった誰かに背負わされた個々の負のパーソナリティをゼロにリセットし、己を「理想の自分」として再出産”と届木氏が表現したように、そうすることが必須だったかもしれない人たちがいるということだ。つまり、キワモノでも何でもなく普通に生きようとしたら居心地が良い空間がそこだったという人たちがいるということ。
今後の技術革新において、VR(仮想現実)/AR(拡張現実)が現実世界に違和感の無いくらいに実装され、個人がアバターを持って生活することが当たり前の世の中になっていくかもしれないが、今この瞬間にバーチャルYouTuberをやっている人たちに「現実を見ろ」と無思慮に投げかける人々は、彼らが抱える背景に興味を持とうとしないだろう。仮に自分がアバターとして生活することが当たり前になった世の中が来たとしても、一生理解することはないかもしれない。そういう人達もいる。
現時点ではエンタメ領域の事象としか捉えられず、ある意味「キワモノ扱い」されているであろう彼らが、近いうちに自然なこととして受け入れられるときが来るだろう。だって、恐らく昔では考えられなかったマツコデラックスだって、もはやテレビに欠かせない人になったんだから。
・理解できなくても拒否しないこと
届木氏が自ら諦めを持って(?)言っていたように、人は自分が理解できないことは恐怖を感じて遠ざけてしまう性質がある(例え安全であっても)。我々に求められる対応としては、仮に今この瞬間には理解できなくてもそれは仕方ない。急に新しいモノを受け容れるのは難しいことは誰だってそうだ。となると、仮に理解できなくても拒否して遠ざけることをせず、知ろうと近寄っていくことは出来るだろう。仮に怖いと思ったとしても、何にでも興味を持った子どもの頃のように。