言葉は煮えて、声がほぐれる
2023年11月、1週間程ツアーで九州をまわった。今回はバンド編成ではなく友人の音楽家とふたり旅。各土地を訪れ美味しいものを食べ、早起きをして少しばかりだが観光もすることができてとても充足感のあるツアーだった。最終日は鹿児島。福岡での演奏が終わった翌日に前乗りすることにして到着したその足でかごしま近代文学館へ向かった。
向田邦子の企画展『向田邦子のはじまり』が開催されており、今回の展示は脚本家としての向田邦子にスポットを当てたものだった。脚本家としての向田邦子が誕生し育まれ、研磨され、大成していくまでの手がかりとなったであろう4人の恩師、森繁久彌、久世光彦、今戸公憲、市川三郎との出会いを軸に展示が組まれており、とても見応えのあるものだった。
脚本家人生23年の間に約90本の脚本を書いている向田邦子の生原稿はどれも何を書いているのか判断しづらい程ミミズ文字が多く、書く速度が閃きや思考に追いつかないという印象を受けた。乱筆だが乱暴ではない。原稿用紙の上を疾走するかのような文字に意識を預けているうちに頭の中には透明な小川を遡上しながら泳いでいく1匹の鮎の姿が浮かんでいた。女性が仕事を持ち自立して暮らしていくことは今よりも厳しかったであろう時代の風潮に逆行するかのよう、自身の腕一本を頼りに筆を走らせ続けている姿勢と重なって見えたからだろうか。
向田邦子の随筆原稿を清書する(または校正だったかもしれない)専属の人がいると雑誌か何かで読んだことを思い出した。
向田邦子脚本ドラマをリアルタイムで見ていたのは小学校高学年辺りからだ。俳優達の台詞のやりとりは家の近所で井戸端会議をしている祖母の会話の内容や酒場で見る大人達が談話の端々でポツリと口にする言葉と寸分変わらない印象だった。活きた言葉だった。日々の些細な描写に付随する言葉、俳優が演じる飾り気のない所作の迫真性には子供ながらに心に脈打つものがあった。
「ドラマを、大衆小説として、身の上相談として、その代わりとして見ている人もいる。声なき評論家(視聴者)にも満足頂くものを書きたい」
生前、雑誌の取材か何かで仰っていたことを思い出した。
この一文に触れた時、脚本家や小説家に限らず仕事とは生きていく為の必携のみにあらず、自身の人生に奥行きを与え社会を豊かにするものであり、同じ時代を生きている見ず知らずの者同士が活かされ、労いあい、各々の生活にわずかな灯りとたわみを与えてくれるものであるべきなのではと考えるようになった。
好奇心を掻き立てるものに出会えたなら尻込みせず扉を開けて入っていけばいい。白黒はっきりつけられなくとも、何故かやめられないと思えるものがひとつでも見つかれば、それは自分の人生を見つけたに等しい。
常設展示してある『向田邦子の世界』は今回より展示変えがされており、エッセイの世界を中心としたものだった。
展示された原稿、エッセイを書くためのアイデア、構成が書かれたメモなど実際に目にすることで感慨深いものがあったが、これらは書き始める為のきっかけのようなもので、実際向田邦子のエッセイやコラムを読んでいると冒頭の一文は鮮やかでキャッチコピーのように読み手を惹きつけ、後は書きながら起承転結が見えてくる質(たち)なのではと感じていた。それもただ見えているものを綴っているだけではなく、物事を細部まで観察している眼差しが見て取れる。書きながら熟考し同時に推敲し構成も担っているかのような文体。簡潔で短文で読み手を魅了する。途中、「これはどう転がるのか?」と思う箇所もあるのだが、行間による余白が人間の瞬きに近い間合いで場面を展開させ違和感がなく、常に面白い。読み終える都度自然と唸っている。
文章や音楽における歌詞でもそうだが、作家の了見や美意識が終わりに向かう程洗練され、作品全体を集約しているものに惹かれる身としては最後尻つぼみにならず余韻といやらしさのない下げを同時に表現する向田邦子の文章に初めて触れた時、美しい建造物を目にした時と同様、恍惚とした溜息が漏れたことを憶えている。随筆家・編集者 山本夏彦の『名人』という随筆の文末、「向田邦子は突然あらわれてほとんど名人である」と書かれているのを読んで以降、この文言を超える賛辞に未だお目にかかったことはない。
何度も読み返すエッセイや、観直すドラマ(脚本)には時代を超えてその都度を生きる私達に問いかけ続けることのできる強度としなやかさ、普遍性が内包されているように思う。向田邦子が残した作品も然り、現在に至るまで多くの人に愛され続ける理由なのだろう。普遍性とは日々の営み、素朴さの中に点在し、暮らしの中どの場面でシャッターを切ったとしても永遠の瞬間を捉えることが出来る筈なのに、情報過多なご時世の中で私達に備わっている筈の素朴さを如何様にも味わえる感度は鈍る一方のような気がしてならない。
展示の終盤には向田邦子の肉声が聞ける設置がされていた。ヘッドフォンを耳にあてスタートボタンを押す。留守番電話の声、インタビューに応える声、朗読の声などが聞けた。想像していたより甲高くも柔らかい声色なのだが、内容や話す言葉の箇所によっては微妙に声色が異なって聞こえた。
私感ではあるが、女は声色を時と場合によってではなく日常会話の中で矢継ぎ早に変化させることが出来る生き物だ。声色にも地層のようにグラデーションがあり、「ありがとう」のひとことでさえ微妙に色合いが異なる。
「想い」「感じていること」「考えていること」を言葉にする時、口から出るその瞬間まで思惑の中で常に執拗に煮え続け、声に出すときにはほぐれてしまっている。ほぐれたその声にはその人の本質が小石の様に潜んでおり、発せられる言葉は思惑の成り行きのみを相手に問いかけ、正解や正しさを伝えているわけではない。
向田邦子の生身の声は背筋をピシッと伸ばし一張羅を着て佇んでいるようだった。筆跡は意識と思惑から逃れ、天賦の才を備えた人だけが描けるどこまでも自由に伸びていく線のようだった。
不羈奔放(ふきほんぽう)、自身と戯れることのできる場所が原稿用紙の上だったのだろうか。
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