「短歌研究」は昭和7年創刊か(結論:創刊でした)
短歌総合誌「短歌研究」が昭和7年の創刊以来初の増刷という話題があった。
昭和7年と言うと、木村捨録編集の短歌総合誌「日本短歌」の創刊の年でもある。
同じ年にふたつの短歌総合誌が創刊されていることになるのだけど、「短歌研究」はのちに改造社から日本短歌社に譲られてこの二つの雑誌は合併しているからなんだかややこしい。
もしかして、「日本短歌」の創刊の年が「短歌研究」の創刊の年となっているのではないか? と思い、家にある古い「短歌研究」を引っ張り出してきた。
なにに興味を持った時に買ったのか忘れたけど、うちには昭和17年から21年の短歌研究が20冊ほどある。そのなかで一番古い昭和17年2月号をみると、発行所は改造社、編集発行人は山本三生、第三種郵便物認可は昭和7年10月15日。
ちゃんと昭和7年創刊だった・・・ごめん・・・短歌研究さん・・・。
なにがあって同じ年の同じ十月に二冊の短歌総合誌が創刊されたんだろう・・・。こんな偶然ある? 謎。
さて、ではどうして合併となったのか。
改造社というと、昭和17年からの横浜事件を思い出す。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E6%B5%9C%E4%BA%8B%E4%BB%B6
(簡単にまとめると、改造社などの編集者・新聞記者らが治安維持法違反の容疑で連行され、特高の拷問により4人が獄死、30人が有罪となった事件。)(有罪になった人が被害者なやつ)
横浜事件の結果、改造社の雑誌「改造」は昭和19年に廃刊、「短歌研究」はというと、同じく19年、日本短歌社に譲渡されることとなった。木村捨録が「引き受けた」というのが正確かも知れない。
手元にある改造社版「短歌研究」は昭和19年3月号まで。三省堂の『現代短歌大事典』によると7月号まで出たらしい。そして19年11月、日本短歌社から「短歌研究」という誌名の雑誌が創刊されている。
創刊号は昭和19年11月号、発行所は日本短歌社、編集発行印刷人は木村捨録、第三種郵便物認可についての記載はなくて印刷納本(検閲関係?)は19年10月27日。発行は11月1日。第一巻第一號となっている。
実際には引き継いだのだろうけど、経緯が経緯だし、発行所も編集も違う同名の別の雑誌としたかったのかもしれない。
では、木村捨録がやっていた同じ創刊昭和7年の短歌綜合誌「日本短歌」はどうなったかというと、「短歌研究」昭和19年12月号(第一巻第二號)の後記に
〈本社発行の綜合歌誌「短歌研究」及び新人育成誌「日本短歌」の両誌は全国の書店で賣捌いてゐる〉
とあり、執筆者の平均年齢を変えることで存続させていたようだ。
ようだ、というのは、調べてないから。先日NDLで女人短歌について調べていた時、「日本短歌」上の初井しづ枝の文章の複写を頼んだのだけど、なんじゃこりゃ、知らん雑誌・・・と思っていた。ろくに見ずに終刊だけをチェックして帰ってきたのだけど、もっとよく見ておけばよかった・・・。
「日本短歌」は昭和29年11月号まで発行され、翌12月、昭和30年度版年鑑まで出して終刊している。ここで「日本短歌」と「短歌研究」は合併したことになるのかな。
29年ごろの短歌研究の編集と言えばもう中井英夫だから、平成4年まで存命の長寿(95歳!!)だった木村捨録は「日本短歌」の終刊をもって総合誌の編集から手を引いたみたい。
中井英夫は今の短歌研究新人賞の前身の50首詠を募集し始めたのは角川「短歌」が創刊するので対抗するために、と語っていて、もちろんそれもあるんだろうけど、「日本短歌」と「短歌研究」の合併の話の出ていた頃だと考えると「短歌研究」を新人の活躍する場とするニーズもあったんだろうな、と思う。
日本短歌社は昭和36年まで「短歌研究」を続け(編集はS24~S30中井英夫、S31~S36杉山正樹)、昭和37年小野昌繁(この人は百首詠に空穂を呼ばなかったので空穂系から評判が悪い人・・・)が日本短歌社より「短歌研究」を譲り受け、短歌研究社を創立、51年昌繁の死後はその妻の富久子が発行人となり、押田晶子の編集となった。(この時代から私もリアルタイム。)そして講談社のグループ会社となり堀山和子、現在の國兼秀二と編集長を迎えている。
はー、つながった・・・・
短歌の総合誌はどう考えたって専門誌なのにどうして「総合」っていうのかという皆が思う謎のヒントになりそうなこととか、当時休刊せずに出てた結社誌の名前(合併の親になった雑誌)とか、特に昭和19年11月12月のあたりで面白いところがたくさんあったけれど、埃で皮膚がめちゃくちゃ痒くなってきたので今回はここまでー。