見出し画像

「全歌集にみる馬場あき子論」より

虫への興味 
富田睦子

  馬場あき子の歌で私が一番好きな歌は、

蜘蛛の子はすはすは糸に乗りてゆく雪を迎へに山越えてゆく 『飛種』

 である。
 多くの人間が本能的にそうであるように、私は虫が嫌いだ。虫の中でも甲殻がなく表面がやわらかいものが特に苦手で、そこにさらに見慣れない奇妙な形や模様、予測できない動きが加われば、ともすれば悲鳴を上げてしまう。蜘蛛はその最たるもので長い間恐怖の対象であった。
 それがこの歌に触れたとき、私は「かわいい」と思ってしまった。自らの吐いた細い糸を頼りに冒険に出かける、小さな蜘蛛の子の勇気と未来、そう受け取る作者の把握の自由さと万物への愛情に心打たれた。この魅力はどこからくるのだろうか。

 馬場あき子に虫の歌が多いことはよく知られている。短歌では古くから蟬(ひぐらし)、きりぎりす(こおろぎ)、また蜻蛉や蝶など多くの虫が歌われてきたし、魂魄と捉える習慣もある。だが、馬場の詠む虫はもう少し距離が近い。『馬場あき子全歌集』「解題・年譜・索引」に収められた谷川健一「馬場あき子の風土」ではすでに一九九四年(歌集でいうと⑬『阿子父』のころ)に馬場の動植物への興味や好奇心が取り上げられ、

「現代の短歌で動植物はよく歌によまれているが、その大部分は歌の添景としてあしらわれているのであって、真底から動植物に好奇心をもつ歌人は少ないと思う。それは歌を見れば直ぐに判ることである。」

とその特性が語られている。今回『馬場あき子全歌集』を読み返すにあたり、私は虫の、あるいは蛇や蛞蝓、蜥蜴など虫編がつく忌避されがちな生き物の詠まれた歌を書き出していった。

 馬場あき子の虫の歌をたどると、まず一九七五年に川崎市麻生区片平に家を建てて引っ越したことが虫に親しむひとつの契機であったと思われる。歌集でいうと⑤『桜花伝承』のころだ。

  その所在かくすとみえて眠りいる葉裏かなしも朝こがね虫 『雪鬼華麗』
  本心のごときかなしみ晒しつつ青虫太く庭をよぎれる  『晩花』
  玲瓏とあをまつむしは鳴き出でてうら若き闇しづかに冷ゆる 『葡萄唐草』
  あたたかき秋の厨になめくぢの夜々来てにぶき命生きをり 『雪木』


 それまでのマンション暮らしから庭付きの土に接する暮らしとなり、否が応でも虫との接触が増えたのだろう。四十代後半、『鬼の研究』が話題になり、また「かりん」を創刊、一方で老親の介護が必要になる多忙な時期であった。のちに

  青虫に突起のやうな足ありて大きらひなれどうねりて歩む 『飛天の道』
  雨の日の共生の友に入れるなら百足はきらひかたつむりまで 『世紀』

などと明かされるように馬場はもともと虫自体を好むわけではない。だが、慌ただしい日々のなか懸命でむき出しの生に触れることは慰めでもあり歌心を刺激もされただろう。
 とはいえ、この時期の作品は冬の気配が強く、虫の歌は数としてそれほど多くはない。虫の歌が(おそらく意識的に)多く作られるようになったのは、⑮『飛種』の前後からである。

  初七日の夜の力あるすういつちよ青きうつし身をあらはしにけり 『阿古父』
  大百足虫(おほむかで)ばらの根もとにゐて涼ししばしなほしばし百足虫うごかず 『暁すばる』
  夜蟬一つじじつと鳴いて落ちゆきし奈落の深さわが庭にあり 『飛種』
  無限に羽化無限に蛹化無限といふ時間けうとき森の香のする
  かたつむりしんねり冷えて竹を這ふ一つぶの小さき意思のしづかさ 『青椿抄』
  百蕾はなだるるごとく花となり春過ぎ夏闌け虫の世来たる

 
「気疎(けうと)い」は「ゾッとするような」くらいの意味だろうか。いずれも虫という存在がなにか遠く深い存在と結びつく接点のような、神秘的な生き物としてうたわれている。どこか真実に触れるような、それはひそやかで敬虔ですらある。
 年譜によると一九八九年秋から一九九三年初めまでの三年半の間に馬場は、父、叔母、義妹、継母の四人の親族を喪い、また同年代の二人の友人(深作光貞・喜多桂子)も喪っている。そんな時期の作品が収められる『青椿抄』は生の愛(かな)しみに満ち、馬場随一の名歌集であると思う。一方で『青椿抄』と同時期の作品が収められる『飛種』は「短歌研究」の連載が中心となっていて「仏頭とすずめ蜂」を第一回目として「蜘蛛合戦」「とんぼと阿弥陀」「虫暦」など虫に多く取材して力強い。連載は反響とともに進んでいくから、おそらく「仏頭とすずめ蜂」の評判が高く、よし、虫を詠もうと意識していたのではないか。谷川健一の「馬場あき子の風土」が書かれたのもこのころで、内側と外側の両面からの要請により馬場は虫の歌を深めていったと思われる。

  『蜜蜂の秘密』をコーヒー一杯で読み終へ到頭ゆふぐれとなる 『九花』
  蝶友といふ友ありて地下喫茶に下りてヒマラヤの蝶の話す 『ゆふがほの家』
  狂言師東次郎さんは虫の人蝶を語れば詩の空の人   『渾沌の鬱』


 そうなるとますます本や人を通して「虫の世界」を知ってゆく。知ればますます面白い。馬場にとって虫はこの頃に、面白く好奇心を駆り立て、また世界を広げるものになったのだろう。

  戦争・地震・衝突・墜落・洪水・病ひ 悲しめど地球は秋あかね生む 『世紀』
  ゴキブリが床をぐるぐるまはってゐる異変のはじめのやうな夏明け 『九花』
  雨びたしのこの国どうなつてゐるのかと土掘れば蟻の卵のひかり 『ゆふがほの家』
  蟻のする奴隷狩の夏すでに終り奴隷のよろこび教へられゆく 『太鼓の空間』
  地球ほろびて未知なる星に目覚めたるごとし爽昧(あけぐれ)のかなかなの声 『鶴かへらず』

 
 時事の詠み方が取りざたされるこの頃である。人類の歴史に皆が満足する時代があったのかは分からないが、それにしてもおかしな世の中だと思ってしまう。馬場はその違和感を虫の命と、あるときは重ね、ある時は比較して表現する。虫たちはありのままに生き、時に示唆的だ。取るに足りないが圧倒的な事実だ。そんな虫への興味が、いびつな人間を、それでも案じ、愛する思いへ転換されている。

  亀虫がみどりの背中ひからせて薔薇は花咲く棘ひからせて 『世紀』
  あぢさゐの花の迷路に分け入りて母をさがしてゐる青い虫 『記憶の森の時間』
  午後見れば大三角形は完成し蜘蛛は確信に満ちて働く 『あさげゆふげ』


 好きな歌を引いた。亀虫も薔薇の棘も、憎むほどではないが疎ましい。しかし、そんな人間の思惑に関係なくそれらは存在している。それが嬉しい。
「青い虫」はルリハムシやある種のコガネムシだろうか。虫に母を慕う気持ちはあるだろうか、いや親を知らない虫だからこそ自分と似た青へ引き寄せられるのかもしれないと、想像を駆り立てられる。 
 三首目はベランダに飛んできた蜘蛛。「確信に満ちて」巣を張り、仮に破られたとしてもあきらめないのだろう。これが正解と信じ担保を求めない、単純だからこそ強い生きる力の清々しさ。
 そこにある生が面白くて歌を作る。馬場あき子の虫の歌はだから面白いのだろう。
 窪田空穂の「態度の文芸」の本質は「自分の興味や関心に忠実に歌をつくる」ことである。そんなことを思い出したりもする。

  夜のシンクに長々とゐる大むかでほかなきか無し叩くほかなし 『あさげゆふげ』

 虫を愛でるとはいえ、必要とあらば叩くことはためらわない。それが人と虫との健全な関係である。その対等な生の真剣勝負も私には好ましいのだった。

引用『馬場あき子全歌集』(角川書店)
308上・128(解題)・141下・175下・203上・214中・285下・292中・314下・323下・336下341中・432中・451下・568上・399中・421中・446中・467上・489中・395下・537上・583上・586中

初出角川「短歌」2022年11月号総力大特集】『馬場あき子全歌集』刊行一年――   深化する伝説 馬場あき子の今
◎全歌集にみる馬場あき子論「虫への興味」 …… 富田睦子
https://www.kadokawa-zaidan.or.jp/tanka/backnumber_2210.html