結社と歌詠み
明日は結社の運営委員会があるのだけど、同年代の後藤さんも染野さんもそれぞれお仕事があって出席できないというのでつまらない。ちぇっ。
あ、でも、会場は神保町だから始まる前に古書市を覗いていこうっと。
わたしの所属する結社は、たぶんよその結社と比べても硬派で特殊で(というか、すべての結社にはそれぞれ特徴があると思う)、作品の良さと並んで他者の作品を読んで鑑賞や文章が書けるということが重要視される。
「民衆詩」である短歌は作ること自体は誰でもできる文芸なのだから「読む」ことができて初めて歌詠みと言える、ということなのだと理解している。
そこそこ若い意欲的な人が入会して、欠詠なく真面目に出詠して、歌会や大会などに参加していていると(編集長に顔を見せてからじゃないと基本的に依頼は来ない。編集室もギリギリで動いてて予測できないことは怖いから。)すぐに色々な文章をかかされ・・・書く機会を与えられる。
私もそれに応じてよく分からないまま目の前の課題をこなしてきたけれど、歌集を出してから他結社や「総合誌」と呼ばれる短歌専門誌から執筆依頼が来るようになって気づいた。
なんか、書ける、ん、だよね。
1ページの歌集評も、短くたくさんの引用をする前月評も、テーマに合わせた歌を引いたエッセイも。
一番ハッとしたのは、某誌から「窪田空穂の震災詠」というお題で依頼が来た時。見た瞬間に(あ、関東大震災のあれ書こう)と思った。それは毎年空穂特集で一首評を書いていたからなんだよね。わけも分からずに年譜や先行研究を参照しながら書いてきた結果、いつのまにか空穂が体系的に頭に入っていたのだった(その後同じ雑誌から「窪田空穂と山」という題でも来たけど、日本アルプス縦断記がすぐに浮かんだ。空穂特集をやってなければ頭を抱えたと思う。そこから全歌集読み通すの大変だし)。
結社というと作品を発表、または実験する場と思われがちだけど、それはもちろんそうなんだけど、私がつくづくああ結社ありがたいなあと思ったのはそういう「読み方」「書き方」からだった。
そんなの1人でできるって結社の強制力を嫌う人もいるだろうけど、私自身はその強制力がなければ身につけられなかったなあ。
まあでも、選歌も添削もあるし(同人誌と違うのはそこ)、教育機関としての縦社会ではある。(逆に後進の育成と思わなければ毎月毎月ボランティアで企画たてて依頼出して回収して選歌して割付して校正してなんてめんどくさくてやってられない。)
それには向き不向きがあるので万人にお勧めはしない・・・。別にうまくならなくても浅く楽しくやりたいって人もいるだろうし・・・。今の自分の作品が常に最高だと思ってる人もいるだろうし・・・。基本的に性善説に従ってる組織だから合わない人に入ってこられて文句言われても対処に困るし・・・。
あと純粋に歌詠みって面白くてチャーミングな人が多い。
普通に暮らしていたら絶対会わない人に会える。それを逆に負担に思う人もいるだろうけど、私はすごく楽しい。
ということで、明日はそんな愉快な人たちと愉快でもない話をしてきますよ。
叩き台のプリント作らなきゃなー。
(2023.3.24)