見出し画像

インターネット、主体、共有

少しややこしいことを書くのでお許しいただきたい。

学生の指導をしていると、とんでもない事をSNSに書き込み大炎上し、相談を受けることがある。一般的に、その都度に教官は会議を開き、本人への指導や、相手がいれば謝罪の要不要やその詳細、さらには今までの教育に不備はなかったか、などを議論する。

会議では、インターネットリテラシーをどこまで教えるのかと、半ば嘆息にような疑問が噴出する事もある。こんなレベルの事まで教えないといけないのか、なんて意見が出る事もある。

さて、そもそも、何故そんな事をインターネットに書くのか?何故炎上するのか?

一つの理由は、いわゆる承認欲求と言われるものかもしれない。承認欲求という言葉は2010年ごろから頻繁にネット上で使われるようになった。何か心理学的な語源でもあるのかと調べたが、あまりこれといったものは無く、あえていえば、マズローの「承認の欲求」に行き着くようだ。

書く理由としてはそれでいいのかもしれないが、炎上する理由は説明がつかないように思う。何かとんでもないことを書いたとして、なぜそこまで感情的で、相手を追い込むような炎上が生じるのか?

もちろん、最近では炎上商法もある。弱者を叩きたいという人間の薄暗い部分もあるのかもしれない。しかし、ここではインターネットの持つ特性の観点から論じたい。

僕は、意図をせずに、不適切な事を書くことと、過度な炎上が生じることは、その源は同じでは、と思う。

まずデリダが言った、話し言葉<パロール>と、書き言葉<エクリチュール>から書き進めたい。

話し言葉<パロール>は、主体と共に表れるので、主体と切り離される事がない。主体は、うまく伝わっていないと感じれば、何か補うこともできる。ので受け手との間で齟齬は生じにくい。一方で、主体から切り離される書き言葉<エクリチュール>は、一人歩きし、相手によって受け取られ方が違う可能性がある。だからエクリチュールはやや冗長に色々な説明がついていたりする。

インターネットの一つの特徴は、書き手/読み手と主体の関係が曖昧になる事だと思う。書き手は書き込む事で、自身の主体・感性をネット上に出現させる。受け手もまた閲覧する事で、自身の主体・感性をネット上に出現させる。つまりネット上の“言葉”を、書き手も読み手も自分の主体の一部として感じてしまい、書き手は読み手を想定しなくなるし、読み手は突然自分の主体侵入してきた他者を酷く拒絶する。

つまり、不適切な書き込みと炎上の問題は、インターネットの持つ特性、自分の主体の一部をネット上に出現させるという、電脳的な魅力、さらにそれにより自他の境界が曖昧になる事に起因するのでは、と思う。

もう少し補ってみる。

書き込みをしている最中は、多くの場合、主体と切り離されない。もし受け手から何か言われてもすぐに言い直せる。自身の半身のような感性がネット上に発露する。

一方で、受け手から見れば、ネット上に漂う言葉は、主体が見えない書き言葉<エクリチュール>である。受け手/読み手にとっては、自分の感性が展開する場であったインターネット上に、その言葉が侵入してきた事になる。書籍とこの点は大きく異なる。その言葉を自分の言葉として取り入れられないなら、これを否定せねばならない。否定は、自分の主観/主体が展開する(信じている)ネット上で行われるので、他者的な視点に乏しい、過剰なものとなりやすい。

以上、ざっくりいえば、書き手も受け手もインターネットの掲示板を「自分だけの庭」のように錯誤してしまうことに、過剰な書き込みや炎上の原因はあるのではないか。そしてこの錯誤は本人だけのうっかりではなく、このシステムの持つ特性に由来するのではないか。

不適切な書き込みや過度な炎上の理由は、人間性だとかモラルと言った曖昧なところに帰るのではなく、そもそもインターネットの持つ優れた部分、インターネット空間上に主体や感性を出現させ、共有できるという特殊性に由来すると考えた方が、この問題と向かい合いやすいのではと思う。

いいなと思ったら応援しよう!