ミャンマー渡航記録1
こんにちは。オフィス謝府礼の阿部です。
今回は私のもう一つの仕事である中部ウェルフェアサポート協同組合の仕事として、先日訪れたミャンマーの渡航記録を備忘録までに書きしたためてみました。
2021年2月の政変で、2015年以前の軍事政権体制に逆戻りしたミャンマー。2022年12月に行われたASEAN首脳会議には結局トップは欠席したまま、ASEAN内での立ち位置も難しい状況が続いていますが、政治は政治。民間である私たちにできることを探しに、今回当協会の理事長と現地集合にて日本語学校などを訪れた3泊5日の行程を、3回ほどのシリーズに分けてお届けします。
2022.12.12 DAY1
▽7年越しの出会い
ハノイ経由で現地時間19;30頃ヤンゴン国際空港に到着。日本を出てからトランジットの時間を含めて約14時間の長旅がようやく一区切りついた。ハノイーヤンゴン間の機内で入国に必要な書類を渡されたがペンを持っておらず、空港に着いてから書こうなどと考え、機内では読書をしながら過ごし、空港着後ロビー内になったデスクを拝借し書類へ記入しようとすると、係員らしき若い男性が近づいてきて、紙を渡せと言う。何か確認されるのかと思いながらも彼に渡すと、書類記入を手伝ってくれた。こういうところにミャンマーの人の親切さがにじみ出る感じがして、先の政変からの出来事を思うとつくづく残念に思う。
空港には14日にガイドを務めてくれるHg Hg Shweさん(仮名)が迎えに来てくれる手配となっていた。イミグレーションを過ぎると彼の手配で、空港に勤務する彼の友人が[Mr.YUJI ABE]の紙を掲げて待ってくれていた。
Htweさんによれば空港の建物内には現在一般の人は許可証がなければ入ることができないそうで、私たちが到着後に迷わないように案内人をしてくれていたのだ。友人の案内で到着ロビーから建物の外へでてみると、なるほど、到着した家族らを待っているのだろうか、多くの人たちでごった返していた。
空港の外に出ると、Shweさんが迎えの車で待ってくれていた。彼は大学在学中に日本語を学びガイドとして生計を立てている人物で、6年ほど前ヤンゴン渡航を計画していた際に知人を通じて紹介をしてもらったのだが、このときは出国前に私が病気をしたことで計画が頓挫してしまったため、今回8年越しに会うことが叶うこととなった。
ところで、私がヤンゴンに来るのは今回が2回目である。前職のとき、一度は病気で計画が頓挫したものの、当時の社長の意向で東南アジア各国の病院を見て廻る機会をもらい2015年にヤンゴンを訪れたことがあった。当時ヤンゴン国際空港は増築の真っ最中で、多くの労働者たちが空港に溢れていた光景をいまもよく覚えている。拡張された空港の敷地内をShweさんの車で走っていくと、空港と街の境界には簡易な検問所が設けられていた。21年の政変後にできたもので、空港への出入りの際には、運転免許証の提示が義務付けられているそうである。
▽旅に想定外はつきもの
今回の渡航の目的は、現在私が監事を務めている中部ウェルフェアサポート協同組合の仕事として、契約を視野に入れた当地の送り出し機関の見学であるが、先に現地入りしていた当協会の理事長からは、街中ではクレジットカードがほぼ使えないこと、また同様に日本の携帯会社の海外サービスもほぼ使えない状態であることを事前にLINEで報告を受けていた。
一方の私と言えば、もともと現金でいくつもりであったことと、いわゆる海外で使えるwi-fiルーターサービスを申し込んでいたので大丈夫だろうとタカをくくっていたのだが、ホテルへ着いてみるとwi-fiルーターの接続が恐ろしく不安定で、1日目はホテル内ではまったく使い物にはならなかった。
ちなみにミャンマーの通貨はチャット(MMK=Kcyat)だが、日本の空港はおろか、近隣のタイやベトナムの空港でも両替はできない。以前は街中でドルが使え、どちらかというと支払い時にも歓迎される雰囲気があったが、いまは街中でドルを使うことができないということで利便性がすこぶる悪い。ホテルではドルを使ったり、両替したりすることはできたが、街中のコンビニでは使うことができず、到着後に購入した500mlの缶ビールはHtweさんに立て替えてもらう始末となった。現地時間の23:00(日本時間25:30)、明日からのスケジュールに備えて早々に就寝し、朝を待つことにした。