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正しいと言われる時間の使い方の「手放し方」
おとなの学び直し、リスキング、リカレント教育、
生涯、学習を続けましょう、という言葉を頻繁に目にするようになった。
つい最近まで大人は仕事だけしてたような気がするのだけれど、、、。
私は今年初め、特に何の目標もなく、韓国語学習を始めた。
韓国俳優に推しがいるから、とか、韓国文化が好きだから、とか、
よくあるそういう力強い動機があったワケでもなく、ただデュオリンゴに迷い込んだだけだ。
デュオリンゴとは、外国語を学ぶアプリ。
近頃巷でよく聞くようになった。
ここの仕組みがユニーク?で、キャラクターのふくろうDuoから毎日連絡が来る。
どこまでやらせたいのだ?と思うほど、連絡がくる。
今日はもういいわ、というこっちの意向を完全に無視した「攻撃」ともとれる(笑)
「ちょっとだけでもやろうよ!」「連続記録が終わっちゃう!」と本当にしつこい😂のだ。
結果、私は今日まで何とか毎日続いている。
が、しかし、
何にも出来るようになってはいない。
「なんの為に韓国語、そんな毎日やってるの?」と夫が聞いてくる。
何のためでもない。
ただ続けるためにやっている。
私の人生はずっと実験なのだと感じる。
何か目標を持って、もっと一つずつしっかり憶えながら、何度も同じフレーズを聴きなおしたり、時には日常的にその言葉を使ってみたりしながら、いくらでも効率的に学ぶ方法があることは知っている。
ほんの少しの間、このデュオリンゴで同じように韓国語をやっていた次男の方が、よほど私より理解していた。
自分でもこの時間は何なんだろうと呆れる。
ただDuoに追い立てられるだけの韓国語学習が、後に私にどんなpieceとして影響してくるのか、しないのか、実験をしている。
結果が出なければ価値がない?
習い事は、お金になるところまでやって初めて価値がある、と言われて育った私。
たいしてやりたいことでもないこの韓国語が、果たしていつまで続けられるのか?
いつか霧が晴れるように聞き取れたり、分かるようになるのか?
お金になんかならなくていい。
韓国語わかってすごいね、ってならなくていい。
ただのらりくらり続ける先に何があるのか無いのか、ただ見てみたい!
それだけの実験が、人生にはいくつもあっていいのではないか?
と思うのだけど、、、。
私は終活という目線で発信をしていて、自分に残された人生の時間を大切に!という視点で記事を書いたりしている。
好きな事をやる、後悔のないように、と。
のらりくらり好きでもない語学学習をやることに、罪悪感なく時間を使わせてくれ、というこの何とも軸からズレた欲求、誰の心の中にもないだろうか?
たまには正しいと言われる時間の使い方に疲れてみてもいいのでは?と思った。
今朝は私の敬愛するNoterさんmanaさんの記事から、考えたこと。
タイパを完全に無視した私の習慣について、書いてみた。
manaさんの記事は美しい。
まだの方はぜひ読んでみて欲しい。