ご機嫌に働く人がいる場所へ③
新型コロナウイルスが世界を震撼させ始めた頃、我が家も子供達の学校は休講になるし、夫の仕事もリモートになった。
私は、というと、クリニックで医療事務という自分史上最も不向きな仕事をしていた。
そしてこのコロナ禍突入は、文字通り私の「暗黒期」の幕開けとなった。
二重マスクに、花粉用メガネ、ビニール手袋の上に消毒につぐ消毒で、仕事とはいえ辛かった。
加えて、私はとにかくウイルスに弱い。
小学生の頃から秋口には誰よりも早く流行病を発症、お正月休みの頃には前回Aなら次はBに罹るといった具合だった。
たった一校だけ受験予定だった大学入試の二日前にも、これにやられた。
そんな私が病院勤務でこの新型ウイルスに罹患したらどうなってしまうのだろう、、、
心は戸惑いと不安でいっぱいだった。
当時ワクチンのなかったこの病気には、私では代打ち出来ないと思った。
何も起こらないうちに辞めよう、、、
そう思った。
産後パートという形で小さく社会復帰した私は、とてもとても恵まれた環境で、夢だったカフェ仕事を10年近くしていた。
二つのお店で働いたが、どちらも本当に楽しかった。
何をしても褒めて貰えるし、頑張れば頑張るほど自分の仕事も居場所も増えていった。
私に音楽以外何が出来るのだろう、と怖々パートに出たのに、この10年の間にどこかで何でも出来るような気持ちになっていた。
しかし、医療事務は勝手が違った。
それまでの10年のように楽しく働けるといいな、と心から願っていたが、開院当初はみなご機嫌だったのに、数年経たずして不平不満があちこちから出てくるようになった。
私は得意なことでない仕事をしている上、自分のことだけではない周りの心理的なノイズが幾重にも重なり、コロナ禍突入の頃には頭はパンク寸前だった。
せめてもの救いはオープニングスタッフとして入った事務仲間が、揃って仲が良かったこと。
仲間の思いやりや助けのお陰で、結果的には5年近くも苦手を少しずつ克服しながら勤めたことになる。
ポイントを絞れば十分ご機嫌に仕事をしていた、と言えるのだか、それでも大きく膨れ上がった経営陣への不信感と不平不満に、私は飲まれていった。
コロナ禍、家と辞めたい仕事だけの毎日の中で、私がオアシスにしていたのが近所の小さなお花屋さんだった。
学生時代音楽をやっていた頃、お花屋さんは最も利用するサービスの一つだった。
お花が冷蔵庫に入っていないのが信用出来るお花屋さん。
この近所のお花屋さんは、そこをクリア。
カフェの一角にあるその店舗には、「あ、これ、可愛い」という連れて帰りたいお花が必ずある。
初夏にはドウダンツツジの枝物も美しい。
お花への愛情たっぷりな女性店主さんとの、雑談なのに深く共感したり、時に互いに涙したりの時間も癒しで、散歩がてら足繁く通った。
大好きな花に囲まれている店主さんは、その空間にいることそのものが幸せだ、とお花のような笑顔で微笑んでいた。
好きなことを仕事にする。得意を仕事にする。
お花屋店主さんの姿を見ていると、自分の人生の仕事時間の使い方を考えさせられた。
新しい仕事を探したら、時給は暫く今より下がるだろう。
せっかく苦手を少しずつ克服して、ここで5年も頑張ったのに、勿体なくないだろうか?と考える自分がいた。
しかし、自分にとって、それは時間という命と引き換えに守るものなのだろうか?
私の答えは「No」だった。
ご機嫌に働く人が一人もいないと感じた職場を、私は生まれて初めて「自身の感情都合」 で離れた。
ご機嫌に働く人がいるところで、自分も再びご機嫌に働く人になる。
ハッキリとした目標が出来た。
もう苦手なことはしない。
得意を磨いていけば居場所はあるはず。
今、その時に「No」と言った自分に、ありがとうと言いたい。