見出し画像

沈思黙読会:斎藤真理子さん「何も持ち出さないし、持ち出されもしない場だと思います。特別強く何かを吸収しないかもしれないけど、誰も排除しない場」

第11回 沈思黙読会での斎藤さんが語ったこと。

今日はとても大勢、集まっていただいて、急に緊張してきましたが、常連の方も初めて参加の方も、皆さんどうもありがとうございました。

スマホを切って読書をしてみましょうという会を毎月一度ずつやってきて、今回で11回目になりますが、複数回参加してらっしゃる方は皆さん「最初の1回がすごく新鮮だった」とおっしゃるんですね。「1回目と2回目の違いがものすごく大きかった」と。私自身も、1回目のときはなんというか、当事者研究的にびっくりするようなことがいろいろありました。自分はそれほどスマホに頼った生活をしているとは思っていなかったんですが、読書をしていて少しわからないことがあれば、すぐスマホで検索して調べようとしてしまう。そういう仕草が自分にとって普通になっている。それは「自分の生活というものが、自分自身でもわかっていなかったんだな」と思わされるような経験だったんです。考えてみたらスマートフォンが登場してから、それほど時間が経っていないのに、人間ってこんなにあっさりと変わってしまうものなのか、という驚きもありました。もしかするとこの会は、本というものとの付き合い方を通してスマホのことをもう一度考える機会になったのかもしれない、とも思っています。

今回、私は3冊本を持ってきたんですが、そのうちの一冊が八木秋子という昔のアナーキストの「異境への往還から 八木秋子著作集3」(JCA出版)です。いまは滅多に誰も読まないような本だと思うんですが、これをパラパラと読み始めたところ、のっけからこの八木さんが、「長沢さん」というさらに誰も知らない女性のことを書いているんです。その人と満州で出会って、それからどうやって別れたか、というようなことが書かれているんですが、その長沢さんというのが誰なのかという情報は、この本の中にはほとんど出てこないんですよ。そこで、もしもスマホがあれば絶対に情報を検索して、長沢さんがどういう人なのかを念頭に置いて読んだと思うんです。でも、今日はそれができないので、全く予備情報がない状態で読み進めました。結果、彼女がどういう人なのかを知らないままで読んだ私にも、八木さんがその彼女のことを思い出して深く嘆いている気持ちというのは心に強く残りました。もしかすると、読みながら情報を検索して、長沢さんの経歴を調べていたら、むしろその情報ごとまるっと忘れちゃったかもしれない。この頃、何でもかんでもすぐ忘れちゃうので、かえって今日の、わからないなと思いながら読んだ記憶の方が、下手をしたら忘れずに残るのではないかと思ったりしました。スマホに頼らない読書っていうのは、何かが足りないようでいて、却って何か深く残るものがあるかもしれない。初回でも感じたそんなことをあらためて思いました。

実は最近、ちょっと読書会について考える機会があったのですが、読書会というのはこの何十年間のあいだで、ずいぶんスタイルを変えてきたように感じています。私自身の体験を振り返ってみると、最初の読書会は大学に入ってから。それも、ほとんどが自主ゼミや勉強会に近いものでした。私は社会問題を勉強するようなサークルにいたんですが、例えばサークルの中で話題になった本を複数人が興味を持って読んでいるから、だったら読書会をやろうか、というような形で開催されるわけです。そこでは先生が生徒に教える授業ではなく、学生たちが自主的に運営しているということが強調されてはいるんですが、特に1年生からすると、やっぱりちょっと授業みたいに見えちゃうんですよね。そこで「読んで思ったことを何でも話してちょうだい」と言われても、何か間違ったことを言うと、怒られはしないけれど少し気まずく感じてしまったり、時々、意地悪な男の先輩とかから「それは違うだろ」みたいなことを言われたりもして、ちょっと嫌だなと思うこともありました。

だから最初のうちは、読書会というのは少し堅苦しくて、積極的に学ぶ姿勢を見せないといけない場所という印象を持っていたわけです。ところが何度もそれを繰り返しているとあっという間に慣れてしまって、大学2、3年生になると、自分が司会者として読書会を開いたりもするようになっていきました。

4年生のとき、1年生を二人誘って喫茶店で読書会をしたことがあったんです。ある女性史の本をテーマにして話し合っていたんですが、会が終わりかけた頃、近くのテーブルに座っていた同級生から背中をポンと叩かれて、「頑張ってるね」って声をかけられたんですよ。私はその子がいることに全く気づいていなかったので、これまでの話を全部聞かれていたのかと思ったら、すごく恥ずかしくなってしまった。上級生ぶって、いろいろとわかっている風に話していたことも恥ずかしかったんですが、何よりも本から知識を引っ張りだそうとしてがっついている感じ、貪るような感じの自分を見られたことが猛烈に恥ずかしかった。そんな記憶があります。

それが1980年代の話です。その後、学習会としての読書会みたいなものはずいぶん廃れていったと思います。私自身も卒業後は忙しくなり、そういうことをやっている余裕もなくなっていきました。そんなとき、「最近、読書会が流行っている」という記事を新聞で読んで、へえ、と思ったことがあったんです。記事の趣旨としては、昔のような堅苦しい読書会ではなく、もう少しやわらかく、集まって本について話すことを求めている人々がいる、というような流れでした。

とはいえ私自身はそういった読書会に参加する機会もなく、久しぶりに読書会に出ることになったのは、自分が翻訳した本が世に出て以降のことになります。翻訳書をテーマに読書会を主催してくださる人たちが出てきて、お声がかかったりもするので、そういう場に参加してみると、それはもうかつての私が知っていた読書会ではなかったんですよね。参加者の皆さんが本の話をするのと同時に、自分の話をしていた。それがすごく印象的でした。以前の読書会は「本から何かを引き出そうとする会」だったと思うんですが、現在の読書会というのは「本がそれぞれの参加者から何かを引き出す会」のように感じました。本が個々から引き出すものを共有する場所のようでもありました。

同時に、本を巡って話すときには、自分の内面が出すぎてしまうこともある。本というものが媒介することによって、何かを引き出しやすくなると同時に、それが少し過剰になってしまう面もあるのかもしれません。というのは、ある韓国の小説を巡る小規模の読書会に参加した時に、会が終わってから、ある参加者の方に「本を読んで強く思ったことがあったんだけれど、あまりにもプライベートなことだったので初めて会うメンバーの前ではちょっと話せなかった」と言われたことがあったんです。その小説はすごく感情移入しやすいというか、読み手の気持ちを引き出す力が強いタイプの本だった。その方は、読んで亡くなった家族のことを思い出して、それが読書体験の中では大きな比重を占める部分だったので、本について語ろうとするとそのことを話さないわけにはいかなかったんだそうです。でも初対面の人たちとそれをどこまで共有していいかわからないので、話さなかったと言われて、なるほどと思いました。本を媒介としているからこそ普段はあまり考えないようなことが、思いもかけない形で言葉になっていくことがあるんだなと。だから最近の読書会では「参加者の話を不用意に他の場所で話さないでください」と注意書きをされていることもありますね。

そして、今日、皆さんが集まってくださった沈思黙読会は、そのどちらにも所属しないといいますか、何も持ち出さないし、持ち出されもしない場だと思います。特別強く何かを吸収しないかもしれないけど、誰も排除しない場というものを目指している。私としては、スマホを切るっていう行為も含めて、ここは「読書のストレッチをする場」みたいに考えています。

今、本を巡る環境というのはものすごい勢いで変化しています。大きな話でいえば、日本全国で書店がどんどん減っていって、本を手に入れられる環境も地域によって格差ができてきている。こうした状況が今後、どう変わっていくかということは、もちろん私にもわかりません。それでも多分、私たちは「本を選んで、読む」という行為を続けていくはずです。

ただ、そこでは今までとは違った読み方が必要になるんじゃないか。何が必要になるのかは分かりませんが、いきなり急激な運動を始めて怪我をしないように、ストレッチをしておくことも必要かなと思っています。本を読むという行為のひとつの段階として、「読む時間だけを共有する」こと。沈思黙読会はそういう場所で、それはとても大切な時間だと思います。そして、ここでやっていることは、場所と環境があれば誰でもいつでもできることです。

今年の夏、新潟の私の知り合いの人たちが、小さい場所を借りて沈思黙読会をやってみたら、大変面白かったとおっしゃっていました。例えば自宅に二、三人集まってやったっていい。ここでスマホを切って読書をする感覚を覚えていただいて、この先、それぞれが沈思黙読会を展開してくださったら、それは本当に嬉しく思います。

「本の海に潜る会」主催者の方の「やってみると実際は、『読書に集中してしまって、本の内容と、面白くて泣いて笑ってたこと、その脇から見えた新大病院の青空しか憶えていない』のでした…」という感想、とても素敵だと思いました。

本当に、やってみないとわからない。自分がどう読んできたか、そしてこれからどんなふうに読んでいきたいか。東京での試みは次回で一区切りとなりますが、今後も形を変えて、いろんな場所で似たような試みがされるといいなと思っています。



最終回となる、次回の沈思黙読会(第12回)は、10月19日(土)ですが、すでに満員となり、お申し込みは締め切っております。


いいなと思ったら応援しよう!