自由とは白黒つけることではない。大人の自由なグレーについて
2017年のはじめ頃、衝撃的な歌詞を聴いた。その名も『おとなの掟』。グッときた。キーワードは、「自由」「おとな」「グレー」。
私には今までなんとなく“思っていた事”があった。我が国で自由な大人になるためには、ある特定の分野で経験を積み、白黒はっきりさせる為の術を身に着け、極力時短で事を済ませなくてはいけない。そして、その道の専門家になる。なにかの専門家になるのは良しとしても、それと自分本来の「自由」を手にすることと、果たして同じなのだろうか、と。それは、本当に成熟の先にあることなのだろうか、と。そんなことを、ずっと私は思ってきた。そして私は、なによりも「大人の自由」を愛している。
そこで今回はフランスの大女優カトリーヌ・ドヌーブ。
映画『シェルブールの雨傘』ではジャック・ドゥミー、『昼顔』ではルイス・ブニュエル、『反撥』ではロマン・ポランスキーにと、数々の個性派映画監督の挑発により、新しい魅力を引き出され、“美人であること”を何層にも成熟させて魅せた張本人。『終電車』『哀しみのトリスターナ』『ハンガー』などなど、どの作品にも挑戦があり、違った存在美を映像に残す。
プライベートでは、過去には「343人の女」として、仏の人工中絶の自由化に貢献し、最近では「アンチ#MeToo」としての書簡を公表し、賛否両論を巻き起こした。つまり、女優でありながら常に自分の意見で行動してきた女性である。
「パリでは自分の目で見て歩くことができる」とある本で目にし、こんな基本的なことだけれど、はっとした。そう、自分の脚がどんな足で、どこに行きたいのかを、自由に受け止めることは、“本当は”そう難しくない。けれどなかなかそれができずにいるのが、現代の大人なのではなかろうか。
目の前の正しさは、常に変化していて、ただその事実を受け止めればいい、だけなのに。
そうだ!「大人の自由」とは、51%の挑戦の先にあり、今日「黒」と思ったものも明日「白かも」と自分に問いただす謙虚さと生命力が必要なのだ。結果、人生は自由を手にしたグレー。