【厩菓子】アーモンドチョコレートクッキー(全粒粉)
すてきな誰かの真似をしたわけでもなく、単純に自分でつくったら好きなものがたっぷりたべられる、と考えたのが理由だと思う。
いまでこそ毎週お菓子をやき、パンを焼いているが、むかしむかしのまだキッチンのイニシアチブを持っていなかった頃からお菓子やスナック作りは私にとって気分転換で、特別な準備もせずに突然やりたくなるものだった。
これまでつくったもので最高に美味しかったのは、中学生のときに焼いた焼き林檎。きび砂糖をバターにたっぷりまぜ、ダークレッドに熟したリンゴの芯をくり抜いたところにおもいきり詰め込み、オーブントースターで焼いた。クッキングホイルでぐるぐる巻きにしたりんごが、赤い汗をかき半分の背丈までちぢんだことろでトースターから出した。バターと果汁と砂糖が溶けた赤いシロップは自然の色と信じ難いほどにすてきな色で、胸がときめいた。バターの沁みた果肉は、酸味と甘味とりんごの香りそれがうまく濃縮されて120%の美味しさだった。あれ以来、数十年たつけれど、あれほど美味しい焼き林檎には出会えていない。想い出の味には、それにまつわる思い出もあるからだ。
焼き林檎のときは、初代トイプードルのマークが亡くなったときだった。ペットの臨終は、子供だった自分の心が悲鳴をあげた。しかし、悲しみの主導権は母にあり、母は思う存分マークの世話をし幸せに看取った。清い仕事をした後のように母は憔悴し、何もする気がなくなるほど意気消沈した。冷蔵庫をのぞいてもほとんど何もなかった。それで簡単にできた焼き林檎を作ることにしたのだ。難しいことは何もない。正直、作り方も定かじゃなかった。ただ母をはけましたいという気持ちだけ、それだけ。美味しいもの+おいしいもの=もっと美味しいもの、という中学生の勘は大いに当たった。母の反応はいまでは覚えていない。とにかく自分でびっくりするほど美味しく、自然って小細工しなくてもちゃんと美味しいってことを知ったときだった。
穀類は美味しい。とくに胚芽のところ、あそこの少し皮を含んだ部分は香ばしくて美味しい。麦こがしという、きな粉に似た粉がある。これに砂糖を加えてただスプーンなんかで救っていただく。これもまた美味しい。言わずものがな、きなこも大好きだ。乾燥した穀類に、黒蜜やきび砂糖とまぜなめると、味云々のほかに、生命維持の本能が喜ぶ気がする。
グルテンは控える傾向にあるけれど、私は小麦が大好きだからどうしたらいいのだろう。麦は大麦も大好きで、ウイータヴィックスという小判型のシリアルは原風景的に好きだ。オーツもはやりだが、あれとはちょっとちがう気がする。香りが違うのだ。それをときどき無性に食べたくなる。
グルテンといえば、小麦を練って水で洗った残留物は、ベジタリアンは肉の代わりに料理につかう。肉を食べない代わりに麦をたべ、でも小麦は成分にも中毒がありうるから食べ過ぎはいけないといわれると、いったいどうしたらいいか困ってしまう。あれも、これもまかなえる食材ということなんだろうか。
そういったトレンドがあるから、すこしは小麦をひかえようとはおもうが、麦の香りとかブラウンに美味しく焼き上がった色とか、全粒粉が舌の上に残る感じとか、如実に浮かぶ時はどうにもつくらずにいられない。
純ココアと胚芽がまざった香りはえもいえない。バターを粒子の中にとりこみしっとりつつみこんだクッキーは歯切れの良さと湿度を兼ね備えて上等で2.5センチ四方一切れで5分は楽しい。焼けばほろほろのテクスチャーを提供してくれるが味に参加しないアーモンドだが、クンッとつきあげるココアの香りの下をほわっとした柔らかい香りで支える。
レシピによる細かいオーブン温度調整の指示のおかげで、最高に美味しいクッキーが焼けた。レシピの二倍量で焼いてよかった。おかげで味見かねて、たっぷりいただくことができました。
やっぱり、自分が食べたいものを、もういらないってほどにたべられる。それが一番の理由かと、はい。認めます。