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【小説】水族館オリジン 7-III

chapter VII: 翁撫村 ③
過去の出来事は、よほどのことがない限り思い出したり、あのときはどうだったのかと心を悩ましたりしないものです。
でも翁撫村の名前の由来を崇くんに話したら、男の子のその後が気になって仕方なくなりました。お正月休みが近いからでしょうか。
一年の行事は仏様と共にありますから。

わたしは、崇くんと二人、一年のお礼をいいにご先祖様の眠っている場所に行くことにしました。いつもなら大晦日に行くんですけどね。そのまえにお掃除もしてさっぱりしていただきましょう。
帰り道の崇くんの水桶にはもう一対、お花が残っていました。
不思議に思って尋ねると、洞窟に行きましょうと、彼が言いました。
そういえば、いつもの採集セットも持ってきていました。

「あなたが気になるのには、きっと理由があるのでしょう。
ちゃんと見れば落ち着くかもしれないよ」

わたしはだまって崇くんの後ろをついてゆきました。
やはり水族館の人だなあと感心しました。崇くんはわたしより海岸のことをよく知っています。わたしは竹林から地下へ降りる穴を通ってゆく道しか知りませんでしたが、
水族館が建っている敷地の端っこの、岩場から降りてゆく道を知っていました。
川からの流れと外海の波がつくる穏やかな流れのくぼみはそこにもあって、
潮が引いて水位が下がると、逃げられずに残った魚を捕まえにゆくのだそうです。

フジツボが岩の表面にところ狭しとこびりつき、いろんな色の海藻を絡ませたまま干上がっていました。岩場はまるで迷路のようです。足元に気をつけておりてゆくと、上からは岩がとびだしていて見えない角に、ぽっかり口をあけたような入り口がありました。濡れたら体が芯から冷えてしまうような季節にかかわらず、そこからは生暖かい空気がふいてきます。小さな水粒を吹き上げ、かすかに潮のかおりもします。

しかし一歩足を踏み入れると、中は潮溜まりとか洞窟というより温泉施設の室内プールみたい。それに閉じ込められたような閉塞感がありました。どこから光が差し込むのか水の底がほんのり明るく、そこがプールじゃなく海につながっていることを思い出させます。波が穏やかなのをいいことに、小魚やそれを餌にする魚たちが悠々と泳いでいます。
崇くんはそれを水槽のお魚をながめるみたいに観察しました。プールの周囲にはぐるりと人が一人通れるくらいの道がありました。プールサイドと呼んでもさしつかえなさそうな広さです。崇くんはそこに腰を下ろし、手前に突き出た岩に重心をかけて水の中を覗き込みます。手桶は離れた岩壁近くに置いたまま、両手で左右の離れた岩をつかみ、見ているこちらの方がヒヤヒヤしてしまうくらい体を乗り出してお水の中を覗き込んでいました。

一瞬、波がとまり、音がすべて消えました。
崇くんの体が水面に対してほぼ水平に伸びた時です。
私は突然の静寂にふりかえりました。
洞窟の入り口の方から、さわさわ、という篠竹が風にさやぐ音が、
衣擦れみたいに聞こえたからです。
誰かが後をつけてきたみたいです。
その音がやんだ時、
音の主がわたしの前にやってきて正面向き合った
そんな感じがしました。

嫌な感じでした。
見ると崇くんは、透明な魚を追いかけているみたいでした。
潮溜まりの真ん中に向かってグンと体を伸ばし、
長い柄をガシッとつかみタモ網を差し入れようと構え、
水の中の獲物をねらっています。
でも、私には何も見えません。
ゼリーのような静かな海水の表面が、わずかにもちあがり
丸い波をつくっているだけです。

崇くんはずっと見えないものを追いかけています。
崇くんの瞼の奥が激しく転がるから、
見えないものがす速く動いているのがわかります。
彼はぜったい逃さない覚悟で目で追い、
持ち直したタモの柄を高々とふり上げ水の中にさし入れました。
瞬間、彼の体はグラリと傾きました。
もう一方の腕でガッチリと岩場を抑えていたにもかかわらず。
彼の体がふわりと一度戻り、
そのあと支えていたはずの岩のほうへ落ちてゆきました。
くの字に曲げた右のかかとが宙を蹴りました。
ほんの一瞬でしたが、
透明な水柱が彼の足首にからみつくのが見えました。
それはまるで子供の手のようで。
それから大きな水音をさせて、彼の体は水の中に落ちてゆきました。

ざっばーん

大きな水しぶきがあがりました。
でも、さすが体育会系水族館学芸員です。
崇くんはすぐに上がって来ました。
こんなことは慣れっこなんですって。

透明な手にひっぱられなくても、落ちたことは数え切れないくらいあるし、
わざわざ底まで潜ってウニや迷い込んだタコをとることもある、
そうです。

でも水から上がった崇くんの顔は、真っ青でした。
そして、軽口をたたいて笑い飛ばすどころか、
海より青い顔をして言いました。

「だからね、お花をもってきたんだ」

花は岩壁の凹んだところにお供えしました。
崇くんが当然のように手を合わせたところには、なにかの燃えカスがありました。

「いつも来るけどね、この煤のあとなんだろうね。
それにときどき無風無音の時があるのよね。それで不思議な気持ちになるのよ」

崇くんは年増のオカマみたいにしゃべり、大きな体を折りたたんで一心に拝んでいます。

「どうぞまた、魚をとりに寄せてくださいな
その時は、どうぞ悪さしないでくださいな」

見ていられなくなって、わたしも手を合わせました。

どうぞ安らかに。

気がつくと、そう言っていました。
わたしは誰に祈っているのでしょうか。
自分でもわかりませんでしたが、
頭にすっと浮かんだので、
素直にそのまま祈りました。

『わかったよ』

誰かが、私の気持ちにこたえてくれました。
空耳だったかもしれません。
でも鼓膜は揺れました。
急いで目を開けたけど、崇くんには聞こえなかったみたいです。

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