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【小説】水族館オリジン 10

chapter X: 小さなお客様

図書館は万能だと思うことがあります。
静かだし、本のための室温と湿度が私達にも快適だし、なにより本がたくさんあります。音楽をきけるし映画もみられる。新聞や雑誌もあってここにいれば何でも知ることができます。どこに行かなくてもたくさんの経験ができます。
中学生のとき学校に行かずに図書館で義務教育を終えられないかと真剣に考えたことがありました。思春期によくあることですけれど。私の場合は、他人とよりも私自身の中が忙しすぎて、ただただ一人の世界に閉じこもりたかったのです。
本棚を含めたまっすぐの整然とした視覚の世界をみているとほっとします。
でも仕事になってからは、本棚にならんだ一冊一冊には書いた人の意思が詰まっているというふうに感じるようになりました。それに気がついた時は、背筋が寒くなりました。

書いた人すらわすれてしまった『思い』が累々とつらなる様子を想像しました。それは墓石のようですから。人の思いはその人の内側にあるときはいいのですが、いったん外に出るといろんな人に影響します。ひとりあるきすることすらあります。目に見えない『思い』は一旦心に深く入ると取り除くのは大変です。だから用心しなければいけないのです。
ときどき、首も座らない小さな赤ちゃんに本を読むお母さんがいらっしゃいますが、気をつけてといいたくなります。どんな本にも文を書いた人、絵を描いた人の思いや考えが入っているからです。それはまるでイチゴの味を知る前にコンデンスミルクと一緒に食べるようなものに思えて仕方ありません。それに本を読む時、目を伏せて少しうなだれた姿勢になるでしょ。あの姿は、困った人たちの話を聞こうとする弥勒菩薩に似ています。頭の角度や少し上がった口角、人の話に耳を傾ける姿はそのままです。物事は姿勢や形から身にはいってくることがありますが、あの姿勢は無条件に外からの情報を自分のものとするときの姿に似ています。広く額を本に向かって開き、無防備に人が落とした言葉をひろう。あとから心が吟味するとしても、文字におとされた感情が目をとおして入ったものはなかなか消えません。

今朝、仕事に来てみると、図書館に小さなバスケットがおいてありました。
早番の最初の仕事は、返却ポストに戻ってきた本の整理ですから、返却ポストがある夜間入口の扉を閉め、ポストに鍵をかけた時バスケットをみつけました。

うちの図書館の利用者さんには本が大好きなあまり、返却ポストに「放り込む」ことができず、まるで子猫を人に託すみたいに小さな入れ物にいれて職員出入り口においてゆく方がいらっしゃいます。美しい布をしいたカゴには、今は使われていない貸し出し票のポケットに小さな文字でぎっしりと感想を書いたカードがおさめられています。本と感想が書かれた紙を抜き取ると、かごを通路の邪魔にならない場所に戻します。こうしておくとカゴは昼過ぎにはなくなります。だれがおいたものなのか、貸出履歴をしらべればすぐにわかりますが、だれもそうしません。本を汚したり返却が遅れて困る人のことはちゃんと調べるのに、こういう変わった作法だけど本を大切にして貸出期限を守る人のことは詮索しません。私はこの図書館のそういうところも好きです。

でも今朝おいてあったのはいつもの小さくて長い柄のついたのじゃなく、大きくて丸くて平たくて左右に小さな持ち手のついたものでした。上に大きな南国の葉っぱがのせてありました。めくると手のひらに載るほどの小さな生き物がうずくまっていました。尻尾はねずみのように長く、耳は縦に細くねずみというよりうさぎの耳のようです。そしてまるでちいさなカンガルーのような足をしていてジャンプが上手そうです。きっと地面をけって跳ねるのでしょう。跳ねるのだったらネズミではありません。
その子はバスケットから出してもにげませんでした。耳を近づけるとかすかに息の音がきこえました。どういう理由でここに置いていかれたのかわかりませんが、しばらくお預かりすることにしました。内緒ですけどね。だって、返却に置いてあったということは、私たちがバスケットにいれて返却される本をどう扱っているか知っている人です。私もその人に会ってみたいと思いました。きちんと対応して差し上げなければいけません。
図書館の裏には、どうしてもタバコを吸いたい人のためのプレハブの喫煙室があります。ほんとうは自習室なのですけど、その一部に守衛室程度の小さな部屋があって、そこをタバコを喫う人のために開放しているのです。でも実のところ近頃は使う人もいなくて、私が一人になりたい時使っています。私はそこでその子を飼うことにしました。迷いましたがモルモットの餌を買って、水と一緒に置いて様子をみました。

一週間経っても迎えがこないので不安になりました。家につれてかえろうかと考えていた日、カウンターにお客さんがきました。昼過ぎの二時ごろのことです。図書館が一番にぎわう時間です。

カウンターの内側は広くて、普段は複数のボランティアさんたちがそこで利用者さんの相手をしてくれます。うしろでは私たち職員が新規の利用申し込みに対応したり、特別な要望や質問に対応したりするのです。
私はいつもどおり、ボランティアさんたちの仕事を監督していました。そのとき、誰かに見つめられている感じがしました。たくさんの人がカウンターの前にいるのに、それよりさらに後ろの、入り口の自動ドアを入ったばかりのところから歩いてくる女の人と目が合いました。カウンターまでだいぶ離れていたのですが、私をしっかりとらえている目です。おかしなことに、その人を真ん中にとらえた風景は全体に一色うすいようでした。実際には何もないはずなのに、まるでうす水色の透明なカプセルをかぶせたみたいにその人と周囲の風景がぽんやり水色にみえました。一歩ごとに、表面の空気がこまかく波立ちます。

「あの子をしりませんか?」

そのひとは、まっすぐに私のところへ来ると、うるんだ唇を開いて言いました。私は、順番をまもってください、と言おうとしました。するとその人の目も輪郭がぼやけ緑色をしているのに気がつきました。偶然でしょうが、私と同じように片方の目だけが緑色の人に会うのは、祖母以外初めてあったので、とても驚きました。背筋がぞくっとしました。私はあのネズミの飼い主だと思い、私がお世話していますよ、と言って顔をあげるともうその人はいませんでした。
私とカウンターの間にはボランティアさんが立ち働き、その前にはCDを返しに来たおじいちゃんが歯のない顔で笑っているのでした。

昼休みになって、いつものようにあの子のいる守衛室へゆくと、あの子は小さな窓のガラスの前にいて、懸命によじ登ろうとしているのがガラスを透して見えました。いつもとはあきらかに違いました。いつも眠ってばかりだったあの子に何があったのかと思いながらドアに近づくと、さっきカウンターの前にいた女の人が木立の中に立っているではありませんか。女の人は、私や小さなネズミのガラスを懸命に引っ掻く音に注意を払うことなくただ一点、木立の奥を見ていました。自習室の目の前には昔の石垣が残っています。そこは昔、観音様の像があったときいています。外海へ漁へ出る人たちの安全を祈る観音様だそうです。いまは何キロにもわたって埋め立てられ、海岸はずっと先に行ってしまいました。

そのうちに観音様は忘れ去られ潮風にさらされただの石の柱のようになっていた観音様は長い間木立の中にほおっておかれました。海岸を埋め立ててできた新しい住宅地の住民のために図書館の建設が計画されたとき、地元の歴史を研究していた篤志家が声をかけ、ここから離れた場所に祀り直しました。今は、観音様がたっていらした石垣だけがのこっているのです。
女の人はその苔だらけで、言われなかったらあることすらわからない石垣の前に立っていました。
あの子がカサカサとガラスに爪をたてる音をききながら、私は女の人に声をかけようと思いました。背中がまた寒くなりましたが、ガラスを擦る音のせいなのか、いつものように見えないもののせいなのか、わかりません。でもそれはどんどんひどくなって私は立っていられなくなりました。腰から力が抜け転んでしまいそうです。そのとき女の人がこちらをむきました。

「あの子をしりませんか? 」

探しているのはネズミの子ではありませんでした。女の人の両目からぽろぽろと涙が流れました。雫が頬を伝うたびに、その人を中心とした水色の風景も、一本、二本と筋を作りながら溶けました。すっかりとけてしまったころ女の人がまた口を開きました。

「観音様はどちら?
二十五年前卵を観音様にお預けしたのに。
どこにもいらっしゃらないじゃありませんか」

緑の目でじっとみつめられ動けなくなりました。そんなことに構わず、女の人は私に向かって歩いて来ます。

「これくらいの大きさなのです。知りませんか」

お腹のまえでハンドバックぐらいの大きさの円を描きます。

一歩近づくごとに水溜りができました。それを踏みしめチャピチャと音をたてて近づいてきます。あおい気配を感じた時彼女が手を差し出しました。
その手を見てびっくり。亀の水かきのような形をしていました。薄くて平たい指のない手のひらに申し訳程度の小さく尖った爪が伸びています。肌はツルツルしていて、モザイクのような濃淡がうすい緑色の表皮の下に見えます。私は口をあけて言うべき言葉をさがしましたが、みつかりません。そうしている間もその人はどんどん近づいてきます。

そして一度差し出した手を引っ込めると、こんどは横から振り上げ私にむかって下ろしました。何も見えなくなりました。

気がついたのは随分時間が経ってからでした。裏庭で倒れている私をみつけたのは、館長先生でした。目を開けたとき崇くんの顔がありました。彼の真っ黒で正しい瞳でみつめられ私は溶けそうになりました。できればずっとこうしていたいと思いました。

「犯人はすぐにつかまったから、安心して」

崇くんは言いました。

犯人って? 

喉がかすれて声になりません。

「いいんだ、今は何もいわないで。お願いだから、じっとしていてよ」

そうして、崇くんが私に頬に触れようと手を伸ばしました。そのとき、あの女の人の時と同じように、彼の周りに透明な膜がみえました。色のついていない、透明な膜が彼を覆っているのです。彼はそれをそっと壊して私の頬に触れました。あたたかく湿った指がふれたとき、意味もなく涙がこぼれました。冷たい涙です。さらさらで、すぐに乾いてしまう涙です。左の胸がキュンと痛くなり顔をしかめました。とても醜い顔だったとおもいます。それなのに崇くんは何も言わず、さっきから同じ心配そうな顔で私に視線を注いでいました。

いつも心配ばかりでごめんね、心の中で思いました。帰ったら、いっぱい彼を愛してあげよう。魚の話をたくさんきいて、美味しいご飯をたくさん作って、そして一晩中笑って抱き合おう。心配がおさまったら、坂口さんや水族館のみなさんを呼んでバーベキューをしよう。パンチェッタを山ほど作って、その場でスモークするのもいいな。どうせ燻製をつくるなら、みんなに食べ物をもってきてもらって煙をあてるのがいい。そんなことを考えながら、トロトロと眠りました。鼻の下を煙の匂いがくすぐりました。

次に目が覚めた時、私は体が動かせませんでした。
生まれてはじめての金縛りです。不思議と不安はありませんでした。とても静かな気持ちです。左胸もピリッとしましたが大して痛くありません。足や手の先の感覚がなく『私』は全部、私のおっぱいの奥にいるみたいでした。自分の胸や目を閉じた顔が見えるのが不思議でした。でも不安は全然ありません。私は幸せです。一生懸命生きて来ましたし、すこし大変だった感覚もこういう時は何一つ聞こえませんから、『普通の』人間です。幸せだなーとおもっていたら、目の前に真っ白い水蒸気のような清い煙が横切り、私はまたトロトロと眠くなりました。

女の人は気がふれていたそうです。東の海に突き出した町から何時間もかけてこの町にきました。海を見下ろす山の上のお寺の参道にあるおみやげ屋さんの奥さんだそうです。突然いなくなってしまい、ご家族が探していました。片方の目が緑なのは、とてもよいことです。すぐに身元がわかりました。混乱してご自分では何も言えなくて、ただ子供をさがしている、と繰り返すばかりです。あの手は?どうして? と言ったのに、崇くんは聞こえないみたいなので。きっと私の見間違えでしょう。それにしても二十五年とは。私の歳と同じじゃないですか。父と母の顔が浮かびました。そんなこと、あるはずがありません。私は撫翁生まれの撫翁育ちなんですから。

それにしても崇くんがこれほどの泣き虫だとは知りませんでした。フランスから水族館の研修に来ている生物学者の方からマカロンのお土産をいただきました。カラフルなお菓子はまるで違う世界のたべものみたいです。目の前に置いてと言っているのに、崇くんたら。遠くて手が届きません。口の中は甘い物をもとめてカラカラなのですけど。 

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