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教師の条件
Facebookのメンションから「教師の条件」について書く気力をもらった。
私は定年まで勤め上げることができたけれども、教師の条件を満たしていた訳ではない。ただ、教師に必要なものを考える機会が多かったのは確かである。
大学紛争の残火のお陰で遊び呆けることができ、私には教師として必要な知識も心構えもなく就職できた。教師になっても遊び呆けていて失敗談や不良教師の武勇伝は数多くある。周りにも良く似た輩がいたことは社会からの批判が少なかったためだろう。そんなヤクザな教員でも数年で世間から批判されるような行いは慎むようになった。年を追うたびに真面目な教師が増え、あの頃の私達は絶滅危惧種になった。今、ICT支援員として職員室に座っていると教師の服装も言動も実に行儀が良い。特に保護者からの電話対応は丁寧で、電話で保護者と何度も喧嘩した経験のある私からみると素晴らしく天晴れである。しかし、非の打ち所のない服装・態度や馬鹿丁寧な保護者への対応は教師の絶対条件ではない。
定年して10年が経ち、人前や生徒の前で話す自信がなくなった。それでもタブレットを使った授業が面白くて多くの時間を授業準備に使っている。教員人生の前半で真面目に教材研究などしたことがなかった。思い起こすとひどい授業の連続だったが、それでも非難されたことはない。小中学校の授業は教科書に書いてある内容を噛み砕いて説明すれば授業の体裁は整い、生徒は「面白くない」「下手な授業だ」ぐらいしか批判できない。授業が下手だという程度で教員仲間や保護者から非難されない。どんな下手な授業でも生徒は教科書を読み、それなりの学習を成立させる。いくら教師としての資質がなくても小中学校の内容ぐらいは経験を積めばある程度のレベルに到達する。周りの教員はそれが分かっているから私のようなヤクザな教員の存在を否定しなかった。とにかく、高校も含めた教師の数は膨大である。彼らの資質は上から下まで随分幅がある。幅がなくては必要数が集まらない。そして教師の能力に大きな開きがあっても、各教師を評価する手段がない。
「それならば、なぜ教材研究に時間を割くのか?」
この理由の1つは出世のためだろう。私には興味がなかったけれども齢とともに多くの教員が出世したいと願う気持ちが理解できるようになった。人間は誰でも自分が優れていたいと願う生き物であり、教員ならば校長にもなれないヒラでは世間体が悪いと考える。2つ目は生徒のためだが、前者との違いは他人が見ても判断できない。この見返りを求めない崇高なる思いには頭がさがった。学校が荒れた時、崇高なる授業を邪魔する輩を教室から追い出すことに生き甲斐を感じた私のような変わり者も出現する。3つ目が自分自身のため、私は定年してやっとこの心境に到達したが、多くの教員は中年に達する頃から自分自身が納得できる授業を目指す。3つの目標は違っても表面の結果に大差は表れない。時に生徒が喜んでくれる場合もあるが、多くの場合、生徒は大喜びすることはなく淡々として次の授業を受ける。結局、授業だけで教師の優劣は判断できない。非難されない程度の授業をするのなら、立派な能力は必要がない。教師の本業と言われる授業に手応えを感じない。だから生徒も教師もより確実に手応えを感じる部活動に魅力を感じるのである。
人間が成長を遂げるのは何かに打ち込んだ時である。生徒が陸上競技、球技、吹奏楽、合唱、受験勉強などに打ち込むのは、4、5歳児が自転車に乗るための練習で一生懸命になると同じだし、教師も同じだ。しかし、教師の仕事は部活動ではなく授業だとすれば、生徒を授業に興味を抱かせ、一心不乱に打ち込めるように努力しなくてはいけないはずなのに、部活指導や行事や諸帳簿や保護者の対応が忙しくて過労死ラインを超えてしまっている。それでも行事や部活動を学校教育から切り離せないのは、教師に対して授業に打ち込む必要はなく、授業などはいい加減でも仕方がないと断じているのと同じである。教師が仕事の成就感を求めて部活動指導に精を出すのを認めるべきではない。
学習指導が魅力的でない本質的な問題は40人学級にある。大人が40人集まったところで意見を言う場合を考えれば、40人という人数がどれほどのストレスを与えるか理解できる。成績の振るわない生徒が意見を言わないのは大勢の前では緊張するからである。緊張感を取り除かなければ、楽しく授業に打ち込めるはずはない。また、教師の説明を一方的に聞くだけの授業では面白味に欠ける。説明を聞いて、自分の意見を言い、友達の意見を聞いて、話題に対する話し合いをする。授業研究では、このような学習を目指す。しかし、40人もいる学級で活動的な学習は無理だとは誰も言わない。40人学級が前提ではまともな授業は出来ない。学級経営も一人の担任が40人の面倒を見ること自体に無理がある。
現在の状況で、どんなに優秀な人材を配置しても学校を正常化できない。また、いくら高収入を与えて集めた優秀な人材でも今の教育現場で生徒が学習に打ち込む真っ当な授業は難しい。
40人学級と部活動と行事からの解放があって、ICT化が進み動画やプレゼンなどのデジタルコンテンツが蓄積されれば、それらのコンテンツをコーディネートするのが教師の仕事になるだろう。そうなれば、授業で生徒の学習意欲を育てる気持ちさえあれば教師が勤まる時代になる。そんな時代の到来を願っている。