指導の基本
算数で計算方法を教えても間違える生徒がいる。それを見つけて間違いの根拠を示す。それでもできない生徒がいる。それぐらいで諦めないのは教師の心構えである。ネットにおけるセキュリティ教育も同じ心構えが必要となる。
いくら指導しても言うことを聞き入れない不良を私は教室に入れず追い返した。すると、校長に呼び出されて、
「短ランでもいいから教室に入れてやれ。」
これが校長命令だった。聞き入れない不良を追い返すのは指導の範疇だと考えたが、校長は指導よりも人権が大切だと言った。世間体ばかり気にして指導を諦めるべきではないとまでは反対しなかった。最終決定権が校長にあるとする組織の規則に従って諦めた。その結果、短ランの生徒に同調した仲間が授業を妨害して私の学年は大いに荒れた。私一人ではどうにもならなかったとき、数ヶ月かかって学年の若い教員が不良たちを個別に指導して、各々間違いを指摘し服装を正し、秩序を回復してくれた。そのおかげで卒業まで漕ぎ着ける事ができた。
指導は大人の都合の良い型にはめ込むことではない。私が服装を理由に不良を学校から追い出したのは人権に反対するためではなく間違いを指摘しても直さなかったから家に帰って着替えてくるように指導しただけである。私は服装の自由を奪うために追い返したのではなく授業妨害などで学校の秩序を壊す生徒の間違いを指摘したのである。短ランのまま教室に入れれば学校の秩序が乱れ学習が成立しなくなると考えた。短ランを放置するのは指導を放棄することになると考えた。間違いを指摘しても改めない生徒の指導を放棄する教師が原因で学校が荒れたのだと思っている。あの時、校長に対して徹底的に楯突けなかった自分を恥じている。
ほとんどの学校がYouTubeを使わせない。メールアカウントを配布しても生徒同士の連絡には使わせない。クラウドサーバーで共有ホルダに入れたファイル名さえ書き変えができないよう設定したがっている。間違ったことをさせないことが指導だと思いこんでいる。規則で縛ろうとばかりする。やがて、それが窮屈だと違反する生徒が現れるだろう。違反した生徒を指導せずに罰すれば最初は済む。しかし、型に押し込められたと感じた生徒が反抗し、彼らに同調する者が増える。やがて、手がつけられない状況になる。手がつけられなくなると指導から逃げ出す教員が現れることだろう。校内のネットモラルは無法地帯になる。それでも苦労して一つづつ生徒の間違いを指摘して秩序を回復させようとする教員も現れるだろう。そして、表現の自由だからと問題のあるYouTube動画や野放図にSNSを許可する校長が現れるかもしれない。まるで荒れた中学の構図そのものである。
推測の範囲を出ないけれど、昔、生徒に間違いを犯させない為に校則を作った。これが「荒れた学校」の原因である。間違いを犯させないための校則ではなく、秩序を乱さない必要性を生徒に指導し、教師と生徒で話し合い、校則は必要最小限にすべきだった。当然、都合の良い解釈で行動する生徒が現れる。その違反する生徒を指導するのが教師なのだ。指導は面倒でも指導することから逃げてはいけない。しかし、現実は「校則違反」だからと罰するだけで適切な指導をしなかった。そればかりか手に負えなくなって人権問題だと指導から手を引いた。
人権問題だからと短ランを許可した校長は教育長になり、不良を追い出し生徒の人権を踏みにじることばかりしていた私も未だに教育現場にしがみつきICT支援員をしている。教育現場では、タブレットを使って生徒に好ましくない行動をさせないために規則と機械設定を厳しくしている。生徒が「間違いを犯す機会」「生徒自身が考え悩み反抗する機会」を奪いネットモラルだけを上から押し付けようとしている。教えることは押さえつけることだと思い込んでいる。不良に一番厳しくあたり学校から追い出していた私が人権を無視していると非難されるような時代が再来しないことを願う。
私の仕事は教師ではなくICT支援員だから、今更、校長や教育委員会に楯突くことはできない。校長室に呼ばれたあの時が楯突く絶好のチャンスだったと昔を懐かしむ老人である。