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俺は変かも?
小学校区の町内会対抗運動会の日、主催者のまちづくり協議会の役員でありながら準備と片付けを欠席した。特に休むべき用事はないから所謂「ズル休み」である。欠席届は出しているけれども主催団体の役員ともあろう者のすべきことではない。
散歩から帰って、台所でお茶を飲んでいると、路地を母子が談笑しながら通り過ぎていく。町内会の運動会に行く彼らに悪いことをしている気がして妻に話しかけた。
「楽しそうだなあ。」
妻が答える。
「子供は町内会の運動会が楽しいんじゃない?」
「お母さんも半日面倒見てもらえて嬉しいと思うわよ。」
私の予想は違う。
「そんなことはない。」
これは言わずに自分の考えをまとめて妻には自分の気持ちを理解してほしいと思った。
「俺は運動会や文化祭やキャンプで楽しいと思ったことは一度もない。」
妻は不思議な表情をした。
「驚かないわ。あなたは普通じゃないから。」
別に驚いて欲しいわけではないが、楽しくないという人間が理解できないらしく質問が飛び出した。
「小学校の教員していた時はどうしてたの?」
「担任としては喜ぶ多くの子のために、並みの担任を装ってドッチボールやお楽しみ会はした。しかし、俺自身は子供の時も教師をしている時も楽しいと思ったことはない。」
私の顔を見て、
「あなた、やっぱり変だわ。」
「でも、俺と同じ感覚の子供もいるんじゃないのか?。」
これは言っても理解されない気がしたが口から出てしまった。
徒競走やドッジボールで勝っても「嬉しい」とは思わないし、勝ったことも活躍したこともない。負けて「悔しい」と思わなかった。個人競技でも団体競技でも勝ち負けで感情が揺さぶられることはなかった。そして、喜びや悔しさを共有する仲間もいなかった。周りのみんながするから参加しただけだった。中学生になってテスト結果に順位がついた時、いい成績で周りに褒められて気分は悪くはなかった。競い合うことで喜びを感じたのはこの時が最初だった。しかし、人並みの勉強はしたけれども特別に頑張る気持ちにはならなかった。ただ、競い合うことで人より優れている結果を残すのは嬉しい気持ちになることは理解できた。けれど、皆がドッジボールや部活動で懸命になる喜びとは違う気がした。高校でも喜びをもつことはなかった。大学では同じ教室の同級生に誘われてヨット部に入った。ヨットは順位を争う競技であるから成績が良ければ、テスト結果と同様に嬉しいけれど、ドッジボールや運動会のように興奮する喜びとは違った。クラブはインカレ予選でいつも最下位で、ヨット競技よりは麻雀などの遊びが盛んだった。そんな弱い部活の中でもトップが取れると嬉しかった。だから就職してもヨットを続けたくて、一人乗りの小型ヨットを買った。蒲郡や河和で行うレースは連戦連勝で気分が良かった。その頃のトロフィーは机上を埋めるほどあった。しかし、中部選手権や全日本選手権へ出場しても成績はまるで振るわなかった。レースで後ろを走る屈辱が続いたけれども、一緒にレースに参加する仲間ができたこともあって、レースをやめる気にはならなかった。
人生で初めて勝敗にこだわったけれど、結婚して子どもができ、仕事もあるから休日を自分だけのために使うことはできなくなった。今振り返ると、小型ヨットは個人競技なので仲間と喜びを共有することはなかったし、強風の中で体力勝負をしても、微風で神経をすり減らしても、レースが終われば達成感は残った。もし、ヨットレースが喜びと悔しさを仲間と共有する団体競技であったら続ける気持ちは起きなかった。この辺りはドッジボールや運動会での喜びとは違った。
45歳を過ぎて子育てに時間を費やす必要がなくなり、また、さほど難しくはない教員という仕事なので人並みにこなすことができるようになった。毎日に余裕ができると、深酒をしたり食欲が増えたりして太った。趣味のないオヤジがダイエットのため5kmの通勤距離を歩いた。勝つ喜びも負ける悔しさもない。感情を共有する仲間もいない。これが妙に気分良く感じて、暇ができると長い距離を歩くようになった。40km、120km、160kmと伸びた。ダイエットの効果も出てきた。そして、新しい刺激も欲しくなって、
「走ってみるか?」
5kmから始めたレースがやがてフルマラソンになった。あの頃、仕事でも親戚付き合いでも人と話す機会が増えた時期でもあった。私は人と話をすることが大の苦手なのだが、20kgのダイエットに成功した原因が散歩とマラソンだと話すと打ち解けることができた。
50歳から始めたフルマラソンに勝敗はない。感情を共有する仲間もいない。散歩の延長線上にある。定年後まで続けたが、腰が痛くなり年齢による体力減退のために走ることができなくなって、73歳の今はICT支援員の仕事と作文と動画作りと散歩に明け暮れている。
私にはドッジボールや運動会で興奮する気持ちは理解できない。私同様の感覚をもつ小中学生もいるのではないかと思う。でも、私の場合は特別扱いして欲しいとは思わない。周りがどんな感覚をもっていようと、その中で生きていくしか方法はないのだから慣れるしかないと思うけれども、小中学校での生活に耐えきれずに不登校となる子もいる。多様性を尊重すれば保守的な考えの人々は反対するに違いない。また、多様性と常識の狭間で格闘しながら現状を受け入れている私の様な「チョット変な奴」も多様性を否定すれば行き場をなくしてしまう子供が心配になる。