イオンシネマ車椅子問題についての真面目な考察──「社会的弱者」同士による市民戦争時代の幕開け──
いきなりで申し訳ないですが、当記事は2万8000文字超えの大学の卒業論文並の超長文なので、頑張って読んでください、お願いします……。m(_ _)m
少し前にTwitterで大問題になった事件があった。
車椅子問題である。
ほとんどのネット民がこの事件を知っていると思うので軽い説明に留めるが、
「ある車椅子ユーザが1人でそれまでにイオンシネマに訪れていたが、今回もグランシアターというリクライニングシートの特別な席を利用した。その際に今まで同様スタッフの介助が発生した。そのことで上映後支配人からグランシアターの利用は控えてほしいと言われた。そしてその旨をツイートした。」
という内容である。
このツイートは即座に(主に悪い意味で)拡散し、ネットは炎上状態となった。その炎上の大きさは小遣い稼ぎの蛆虫共のネットメディアがこぞって取り上げたほどである。
すでに車椅子問題は流行り廃りが著しく早い昨今のネットでは沈静化しつつあるが、改めてそれについて私なりに考察していきたい。
前提となる知識1──改正障害者差別解消法の施行──
まず、かかる問題を語る前の前提として、2024年4月1日に改正障害者差別解消法が施行され、民間事業者の合理的配慮提供が法的義務化される。
「障害者から現に社会的障壁の除去を必要としている旨の意思の表明」があった場合において、「その実施に伴う負担が過重でないとき」は、障害者の権利利益を侵害することとならないよう、社会的障壁の除去の実施について、「必要かつ合理的な配慮(「合理的配慮」)」を行うことを求めているのである。
これらの障害者差別の撤廃への前進の歴史は素晴らしいものだ。例えば、日本の障害者運動は以下のようなものだ。
前提となる知識2──「全体戦争」と福祉国家の成立──
国家が障害者(または傷病者)にかかわる過程には、次の2つの契機があった。まず、日露戦争から第二次世界大戦にかけての、「全体戦争(総力戦)」との関連がある。
この時期においては、徴兵制という仕組みと、戦争による傷病兵(軍人遺家族)をあげることができるだろう。1917年の軍事救護法を代表とする関わり合いは、まさに「全体戦争」という背景の中で生まれてきたものだ。
次に、連合国における福祉国家体制がある。すなわち、ナチスの戦争国家(Warfare State)への対抗としての福祉国家(Welfare State)体制である。
これは、1942年のイギリスにおけるベヴァリッジ報告を端緒とするもので、この体制は戦後において社会主義国家に対する修正資本主義体制へと引き継がれていくことになった。
このような福祉国家体制は、日本においては憲法第25条において「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と明文化された。
戦後の国民健康保険法(1958年)、国民年金法(1959年)、老齢・母子・障害者への福祉年金(1960年)、厚生行政長期計画基本構想(1961年、生活保護基準の値上げ、年金制度の改善、医療保険の給付内容の充実)、児童扶養手当法(1962年)といったものは、福祉国家としての「最低限度の生活」保障への取り組みであるのは言うまでもないだろう。
一部の保守派の中にはまるで戦前には障害者への配慮が全くなかったような言い方をしている者もおり、更にそれがあるべき姿とさえしている。
けれども、少しでも真面目に授業を受けていればそれらが誤りだとわかるだろう。
戦前の時点で傷病軍人(身体障害者)や戦死者の遺族、下士官兵の応召で生活困窮におちいる家族扶助に必要な経費は、全額、国庫で負担され、生活扶助、医療、助産および生業扶助と埋葬費が支給されたのだ。
記録によると、生活扶助額は、1人1日15銭以内と決まっていたようである。
しかし、制度や理念はあれど今のようにこれらの社会的弱者保護は冷淡に見られていたのも事実だ。
ここまでが障害者差別への日本の対策の大まかな流れである。
もっと専門的な話をすれば、障害者も含めた貧困等の社会的弱者救済はイギリスの1601年エリザベス救貧法や1795年スピーナムランド制度などの話をしなければならない。
これらは従来キリスト教会が行ってきた貧民救護と違って、法(Laws)や制度(System)という公的な規程で制定されたのが非常に革新的であった。
しかし、これらの話は哀れでみすぼらしいプレカリアートの私ではなく、金持ちのインテリの専門家たちに任せよう。
車椅子問題に対する具体的主張と考察
では今回の車椅子事件は何が悪かったのだろうか?私も全ての議論を追えているわけではないので多々見逃しがあったり、私の制約された知能故に誤りがあるかもしれないがご容赦願いたい。
車椅子問題1──車椅子ユーザのグランシアターの単独利用について──
車椅子問題は開戦初期から自然休戦(沈静化)まで、論点がコロコロ変わっていった。当初は車椅子ユーザの主張単体が争点であった。
つまり、車椅子で介助者なしにグランシアターという階段のある場所に行くこと、スタッフに介助させる(させていた)こと、そしてそれについてのイオンシネマ側の対応の愚痴をネットに晒すことの是非であった。
イオンシネマ側がこの「愚痴」に即座対応したことが象徴的だが、SNSが社会に酸素のように浸透し、生活と密接に結びついている今、Twitterで一旦悪評が立つと(それが事実であれ虚構であれ)株価などにも影響する。
更に当該車椅子ユーザはフォロワー数の多いインフルエンサーであった。この点もイオンシネマ側擁護の声が高まる要因の一つとなった。
なお、この愚痴自体はせいぜい「こんな事があった!悲しかった!」程度のもので、客観的な評価はともかく主観的には悪意はなかったのだろう。
しかし、悪意がないことこそが問題だ、や、インフルエンサーを名乗るくらいだから自身の影響力を考えろ、等の指摘は発生して当然でもある。
更に、彼女がグランシアターを選択した理由として車椅子用の席は構造上・防災上最前列が多く、首が疲れて辛く、また見たい映画はグランシアター以外では上映していなかった等の事情もあったと思われる。
映画館の最前席は人体(首)に過大な負荷がかかるため、できることならば避けたいという気持ちはわかる。
かつて、Twitterにおいて『アナと雪の女王2』の有償の宣伝ツイートを、宣伝であると明記せずに、依頼を受けた絵師たちが一斉にツイートした結果、激しいバッシングがおきた「アナ雪2ステマ事件」でステルスマーケティングが叩かれたように、またアフィブログが嫌われているように、この反商業主義のインターネットとオタクにとって、マネタイズするインフルエンサーは存在自体が嫌悪されているという要素もある。
車椅子問題2──スキルのないスタッフの介助の是非──
車椅子を一般のスタッフに介助させていたのも批判が集まった。グランシアター以外には車椅子用の席があるのにグランシアターを選び、スタッフに車椅子ごと階段を引き上げてもらったのだという。
しかし、一般常識として「階段」を「(おそらく)介助の訓練を受けていない女性スタッフ」が「2人」で当該車椅子ユーザを「引き上げた」という事実は誹議を受けるのは仕方ない面がある。
基本的に、福祉の世界でも車椅子の階段介助自体が避けるべきで、なるべく階段昇降機を使うべきだとされている(「昇助くん」などは有名ですね)。
当然だが、「基本的に」であり、例外は多々発生しているのも現実である。それは失念してはならない。
更に階段介助には安全のためには4人が必要で、2人ではやむにやまれず行うもので、訓練を受けた成人男性でも2人で階段を引き上げるのは体力的に大きな苦痛が伴う。映画館の一般女性スタッフ2人で行うのは無謀である。
後部の2人がハンドグリップとハンドリムをしっかり持ち、前部の2人はアームレストとレッグレストのパイプを持ち、相互に息を合わせて行わないと車椅子ユーザ本人にも危険が伴う。
スキルのない者が行った車椅子の介助が失敗して大事故が起こった事例がある。『判例時報1333号128頁』に記載されているものであるが、この事件では腎臓機能障害(身体障害者等級 1 級)により足が弱く歩行が困難であり、車椅子を利用している生徒が、他の生徒に介助され、結果として両大腿骨骨折の傷害を受け、治療を受けたものの、両下肢全廃の状態で治癒の見込みはない悲惨な状態となったのである。
この例は決して笑い事で極端な例でもない。車椅子の構造と利用者の身体的特徴(バランスを崩したときに対処が難しい等)からくる尋常な問題で、福祉介護の現場でもよく取り上げられている。
車椅子問題3──車椅子ユーザの新幹線の多目的室における配信と猫の取り扱い──
戦いは更に激化した。当の車椅子ユーザの過去のツイートやYouTubeに投稿していた動画がdigられた。それらは穏当なものから、過激で、社会のモラルやルールを守ってないと思われるものまであった。
例えば、彼女は何回か新幹線の多目的室でライブ配信や写真撮影を行っていたが、その中に猫をキャリーケージから出している時もあった。
なお、多目的室は身体障害者として事前に予約して使用していたと見られるので、これ自体は非難されるべきではない(多目的室をそんな目的で使うな、というモラル的な要素はともかく)。
しかし、猫は問題だ、これでは猫アレルギーの患者は困ってしまうだろう。
猫アレルギーの患者は実はかなり多く、世界中の成人の最大20%が猫アレルギーと推測されているほどポピュラーなアレルギーである。
猫を飼っている人の約8人に1人(11.8%)が猫アレルギーだというデータもある。
猫アレルギーは猫の毛や皮層、唾液、血液、尿などに含まれる血清アルブミン(Fel d 2)というタンパク質を吸い込むことで発症する。
これの厄介なところはアレルギー自体の症状で最悪なもののひとつ、アナフィラキシーショック(急性の循環不全を呈する状態で、血圧が低下し、組織に十分な血流が得られず、主要臓器が低酸素となる状態)の他に、pork-cat syndrome(豚猫症候群)を引き起こすことがある点だ。
統計では、猫アレルギー患者の約1~3%がこれを併発している。
これは豚の血清アルブミンが、猫の血清アルブミンに類似しており、交差反応が発生するためである。
この症候群は発症確率は上記の通り低いものの、発症すると豚類の摂取が困難になり、食事においても日常生活に支障が出るなど、(宗教等の事情があれば別かもしれないが)一般論として、QOLが低下する。
JR側も多目的室で猫をキャリーケージから放すのは想定していないだろうから、掃除もアレルゲン除去を考慮したものではない恐れがある。
写真を見ると、多目的室のソファの生地はファブリックだろう。猫アレルギーにおいては、ソファはアレルゲンを掃除しやすい本革か合成皮革が推奨されている。
反復するが、豚猫症候群は極稀にしか起きない。しかし、ただでさえ攻撃が集まっていた中で、本人の知名度もあって(インフルエンサーである)、過去のこの振る舞いは配慮のない行為であった。
車椅子問題4──車椅子ユーザの救急車内の配信──
なおいっそうdigは進んだ。今度は彼女が救急車内でライブ配信を行っていたのが明らかになった。彼女の自己申告によれば、脚を骨折したのだという。脚の骨折で救急車を呼ぶこと自体は問題ないと私は思う。
しかし、ライブ配信をするのは昨今の救急車に関する各種論争が起きている現状を鑑みればあまり良い行為とは言い難い。
もちろん、法律には違反していないため主観的な「言い難い」に留まる。救急車の不正利用問題(軽症なのに救急車を呼ぶ、話を聞いてほしい、タクシー代わりにしたいなどの理由で呼ぶ)については、例えば2015年に財政制度等審議会が救急出動の一部有料化を検討すべき、との建議を財務大臣に行ったほどである。
かかる状況でライブ配信をするのは、仮に非常に骨折の部位が痛み、それ故に半ばやけっぱちの行動だったとしても、繰り返すが、良い行為とは言い難い。
このように当該車椅子ユーザは、法律には違反していないがマナーやモラルが不足しているという行動をしており、更に悪いことにインフルエンサーとしてそれらを積極的に発信していた。
今や義務教育でGIGAスクール構想の一環としてSNSの運用(SNSを避けるのは無理なのでリスクを避ける方法)を学ぶほどの高度情報社会である。
それほどまでにSNSはセンシティブとなっているのに、これらの行動は不用心だったというしかない。
障害者は聖人君子である必要は全くない。ダウン症は天使であると強弁しなくとも良い。どんな障害者でも受け入れられる社会が理想だ。
しかし、ここに限れば、彼女は批判したい層から蕩児愚人とレッテルを貼られても否定しきれない部分があった。
そして実際にこれらの愚かな振る舞いは攻撃対象となった。
本来の議論は「車椅子の映画館利用について(とそれに伴う障害者差別の問題)」であったはずだが、ここでこの車椅子ユーザ=道徳なき悪人=発言の全てが絶対悪である、と見なされるに至った。
これらはAd Hominem(人格攻撃)で、ツイート単体の争点とは本来無関係である。
連続殺人鬼が道徳的な理由から殺人を批判したとする。
その際、彼が過去に殺人を繰り返した連続殺人鬼だからといって、殺人が悪という主張は間違いではない。
だが、アメリカのブラックユーモアカートゥーンの『サウスパーク』でカートマンが相手を批判するのに主張ではなく、相手の人格をひたすら攻撃したことで民衆から支持を集めたエピソードがあるように、これは非常に効き目がある。
実際、こんなことを書いている私でさえ、知能と陋劣な感情制御の制限から、現実で人格攻撃を見たら主張の是非はともかく、なんとなくその者が悪いと感じるだろう。
文章という落ち着いた思考が可能な場でのみ、(馬鹿な私に限っての話だが)このような事が言えるのである。怖いねえ…(黄猿)。
車椅子問題5─障害者は「ありがとう」を言うべきか?──
ここで戦いの場で新しい論点が出てきた。
障害者の態度面での議論である。具体的には「障害者は健常者に介助(おそらくだが、これは日常的なごく軽いものを想定しているだろう)や親切をされたら感謝の言葉を言うべきか?」というものだ。
この問題は実は「ありがとう問題」といって少なくとも2012~2013年頃から障害者たちの間で討論されてきたのを確認している(Facebookの障害者コミュニティなどを参照)。
Yahoo知恵袋などにも(健常者の側の書き込みだが)同様の趣旨の質問と回答が確認できる。
しかし、これらの問題は、ネット上のやりとりでは結局結論を見出すことができなかったようだ。
この感謝問題については、心理学の分野で先行研究が存在する。
『感謝された後に向社会的行動が起こるまでの心理過程』という滋賀大学と上智大学による論文である。
この論文の骨子は
約言すると、感謝の言葉を相手に伝えれば、相手の向社会的行動(相手のことを思いやって誰かのために行う行動のこと。反社会的の対義語)が起こりやすくなり、感謝の言葉を伝えなければ向社会的行動は起こりづらくなるのである。
つまり、社会全体の効用を考えれば健常者や障害者の区別なく、みんな感謝は言ったほうがいいだろう。
しかし、これは強制されるようなものでは決してないのも事実だ。
健常者でも店員に横柄な態度を取る人間が少なくないし、障害者だって傲慢な態度をとってもいいはずだ。
ことさら障害者だけが感謝を無理強いされるのに反発が起きるのも無理はないし、仮に感謝を伝えなくとも相応のサービスや支援を受けられるのが理想的社会である。
だからこそ、例えばJRのみどりの窓口のスタッフと感情を介する対人コミュニケーションするよりも、自動券売機などの機械を好む人は一定数存在するし、私もその一人だ。
そして、世の中の機械化はAI技術の飛躍的進歩もあり、これから更に拡大していくのは間違いない。
それで、暮らしやすくなる人が出るのも実情である。機械化についていけない高齢層には世知辛い話話かもしれないが……。
私は『ジョニーは戦場に行った』や『潜水服は蝶の夢を見る』のような閉じ込め症候群になってありがとうが伝えられない者でも支援が受けられるようになってほしい。
とはいえ、感謝の言葉を伝えるだけで生きやすくなるならば──伝える能力があれば──伝えたほうが健常者・障害者関係なく「一個人」としては得なのも事実だ。
実際、私はメガネを掛けている状態ではインターネットで盛んに排撃される「チー牛」そのもの外見であり、声もアコースティックギターの弾き語り配信をしていたら「ギターはまあいいけど、声がね……」と酷評されこともあるほどの気持ち悪い人間だ。自分で言ってていや~きついっす(素)。
それはともかく、私はこんな人間なので店員さんにはいつも、ありがとうございます、と言うようにしている。
ただでさえメラビアンの法則(人間は非言語コミュニケーション、つまり容姿や声で他者の評価を決定しているという仮説。批判もある)的な観点からいって、初期スタート点が不利なので、せめて言語面でくらい良いところを見せないともはやこのルッキズムの社会で私は生きていけないからだ。
これはなにも障害者もありがとうを言え!と言いたいのではない。
健常者も含めて、感謝の言葉を口にするのはメリットが有るという事実だけである。
リピートするが、健常者も障害者も謝辞を述べなければならないことは100%ない。
健常者も障害者も感謝などいらなくてとも、個人個人に応じた「合理的な配慮」を受けられるような社会でなければならないだろう。
私は個人的に感謝にベネフィットがあるためそれを享受したいのと、個人的心情から賃金労働者仲間に心から感謝してるので口にするだけだ。労働の辛さが痛いほどわかるから……。
車椅子問題6──社会変革運動のために市民への「迷惑」は許されるのか?
戦果は拡大し、次に車椅子ユーザの問題提起から話は「川崎バス闘争」的な、社会変革を図るとしても急進的な、いわば「健常者に迷惑をかける実力行使」自体の是非への争点が発生した。
川崎バス闘争とは、脳性麻痺者による障害者差別解消・障害者解放闘争を目的として組織された日本の身体障害者団体「青い芝の会」の神奈川支部が1977年に起こした社会運動で、介助者なしの車椅子利用者の乗車拒否に抗議するため、路線バスに乗り込み占拠した。
事情としては、介助者なしの車椅子利用者を乗せるために、運転手が車いすの乗客を持ち上げて車内に移動しなければならないので腰を痛めたり、運行に遅れがでたり、手間だったり、おそらく障害者蔑視もあったかもしれないが、とにかくこういう事情があった。
この「闘争」に参加した白石清春(NPO法人あいえるの会理事長)の回想によれば「バスに備えてあったハンマーで窓ガラスを割って、そこから拡声器を出して、乗客に向かってアジテーションを行なったり、バスの運転席に腰かけてハンドルを叩き割ったりして暴れ、夜の11時までバスの中に籠城し続けた」(『ノーマライゼーション 障害者の福祉』2016年5月号)という過激なものだった。
最終的に運輸規則が改正され、支援者なしでもバスに乗れるようになったが、それは1999(平成11)年。闘争から実に22年後のことだった。
この運動のような実力行使で有名なものにストライキがある。雇用者側の不当な要求に対し、労働者たちで連帯して職場放棄などの労働争議を起こすのである。このストライキは法的にも保護されている。
日本のストライキ件数は労働組合とともに戦後に急上昇し、石油ショックの影響でストライキの件数は1974年に9000件を越えた。
しかし、現在のストライキ件数は次第に減少し、2013年には71 件となった。
ストライキの重要性について、Okunukiは『Has striking in Japan become extinct? 』というThe Japan Times Communityの 2015年6月28日の記事で以下のように述べた。
よくテレビのニュースで出てくる「春闘」も労働争議と関係がある。
労働者のみんな、ストライキをしないでね!その代わり賃金上げたり福利厚生改善するから!と会社側と労組が交渉して起こるものである。
(まあ……これはいろいろなことがいえるのだが、それを語るとただでさえ異常に長いこの記事が取り返しがつかなくなるのでここでは語ることができない)。
有り体に言えば、このような実力行使で社会は進歩してきたと言える。
よくネットでも「労働時間は長過ぎる。1日8時間、週5日、合計週40時間の労働は苦痛だ!」という意見が聞かれる。
実際、私も社会不適合者なのでこれはきつい。しかしこの労働条件もかつての労働者の実力行使で勝ち取ったものなのだ。
世界史的に「8時間労働」という基準値が生まれたのは、産業革命時代のイギリスである。
当時、子どもを含む工場労働者が長時間(スウェットショップと呼ばれた労働搾取工場では1日18時間働かされた記録もある)働かされている過酷な状態を改善するために、「仕事に8時間を、休息に8時間を、やりたいことに8時間を(Eight hours labour, Eight hours recreation, Eight hours rest)」というスローガンが叫ばれ、労働時間短縮を求める運動が欧米各国に広がっていった。
1857年に発表したイギリスの労働運動史の中で、サミュエル・H・G・キッドは
「工場で働く子どもたちは、朝日がのぼり一日が明けるよりもずっと早く起き出してくる。中には靴や靴下も履いていない子もおり、疲れ切った体を引きずって、雨や雪に濡れながら、キリスト教徒の街マンチェスターの通りを歩いていく」
と書き記している。それくらいひどい労働条件だった。
うってかわってアメリカでは、1886年5月、シカゴの労働者が連帯し、8時間労働制を要求する大規模なストライキが行われ、これが「メーデー(労働者の日)」の起源となった。
今でも会社や役所で参加させられた者も多いのではないだろうか。こうした実力行使によって我々の社会は改善されてきた。
我々も社会運動を起こして労働条件を良いふうに変化していきたい。
……とはいうものの、川崎バス闘争については別の見方もある。
大分大学の廣野俊輔の『川崎バス闘争の再検討 : 障害者が直面した困難とは?』という論文がこの件に詳しい。
この論文を引用・要約すると
川崎バス闘争は、身体障害者の「全ての人が介護すべきだ」という理念に基づき行われた。
それはこの社会の全ての価値基準が健常者ベースで構築されており、それが知らず知らずに障害者を排除してきたことを、人々全員が日々の介護や在宅障害者との出会いによって気づくためだという。
これには、生活の保証と社会変革を同時に成し遂げようとする志向があったのである。
しかし、これらは障害者の「わがまま」と見なされて社会の分断はより深まってしまった。
結果として、市民が普遍的な介護をすることは達成されなかった。
今でも介護福祉制度は有償サービスが主であり、障害の程度や地域によって大きく異なるとはいえ、障害者は在施設であったりすることが多い。
これは今回のイオンシネマの車椅子問題にも当てはまる。
車椅子の彼女は川崎バス闘争と同じ理念、普通に市井にいる人々による普遍的な介助を望んだが、受け入れられなかった。
その理由はここまで述べてきた要素がその一端である。
個人的意見としては、たとえかかる志が失敗したとしても最初に述べた2024年4月1日の改正障害者差別解消法の施行により、民間事業者の合理的配慮提供が法的義務化で確実に社会は──市民による普遍的な介助とそれによる諸目的の達成という、障害者たちが切望した方向性と少し違うかもしれないとしても──前進していくだろう。
それは、川崎バス闘争が健常者に「わがまま」として否定されたが、その後運輸規則が改正され、支援者なしでもバスに乗れるようになったことからも示唆される。
社会は往々にして漸進主義(gradualism)なのである。
例えば、公民権運動で有名な黒人指導者のキング牧師は、当時のアメリカ政府の白人たちの「穏健で緩和な人種統合」は黒人の人権問題をゆっくり先延ばしにしており、まるで(根治ではない対症療法的という意味で)「精神安定剤を飲む(take the tranquilizing drug)」ようだと批判した。
けれども、結果として──ブラック・ライヴズ・マター(BLM)などの各種問題はいまだ山積みだが──少なくともジム・クロウ制度によって黒人専用の水飲み場、黒人専用の鉄道の車両、黒人専用の食堂……等々があった人種分離の時代よりは社会は黒人たちの決死の努力で改良されたと言えるだろう。
なお黒人専用設備は白人専用のものより圧倒的に質が劣っているのが常であり、その程度が尋常ではなかった。
1894年、最高裁判所は、ルイジアナ州における鉄道車両での分離に対して、黒人専用の施設にも同等の設備を設ければ、人種別に施設を分離すること自体は合憲であるという判決を下した(プレッシー対ファーガソン裁判最高裁判決)。
これでアメリカの白人の考えた「分離すれども平等」理論は、アメリカ合衆国憲法修正第14条に定める「平等保護条項」(Equal Protection Clause)に反しないとお墨付きを与えられた。これにより、以後60年にわたり、米国は人種分離を正当化した。
私は「個人的信条としては」漸進主義を信じている。
しかし、信条を抜きにすると、私のこの考えは、まるで赤ちゃんがまだ自我もないまま乳を欲して満足しているかのように、非常に能天気かつ楽観しすぎていると非難されてしまうだろう。
この後に語る事柄にもつながるのだが、日本の経済は落ち込み、労働者の労働環境は悪化の一途をたどっている。税金の課税は厳しくなる。しかし、増税しても高齢化に伴う医療費と介護費の増大で社会保障は充実どころから削減されていく。
ここで、学のあるインテリ専門家たちはこう言うだろう。曰く「岸田政権はPAYGO原則(「PAY-AS-YOU-GO」の略。「使った分だけ支払う」の意味。1990年代のアメリカ政府の財政改善に用いられたことで有名)を再び日本に当てはめようとしているのだ!ある義務的経費の増加は、他の義務的経費の削減によるのである! これは増税による補填は認められないのであるから、政府の支出は減るのである!」と。
なるほど、たしかにインテリ諸君の言う通り、財政規律の遵守は大事だ。しかし、我々プロレタリアート/プレカリアートは日々の物価の上昇と実質賃金の低下による絶望的な生活に苦しんでいるのである。
このような環境で、一体誰が未来に希望を持てるだろうか?結婚できるだろうか?子供を産もうと思うだろうか?
ためしに話題となった新書『未来の年表 人口減少日本でこれから起きること』を読んでみると良い。
人口の統計推測をソースにして、我が国の将来予測を淡々と語っている。
深刻な少子高齢化と人口減少で些細な傷から細菌感染が発生。
国は末端の四肢(地方)から腐り落ち、敗血症のように急速に細菌は国の身体中心部(大都市圏。あの東京も含む)を汚染し、毒素(国としての危機)が回る。
毒素に対してサイトカイン(対策)を放出するも生体の恒常性(先進国としての立場)を失い制御困難(衰退)になる。
これは私の大変下手な例え話で実際は本書を読んでほしいが、ともかく……私は自分を支えている脆弱かつ惨めな個人的信条でかろうじて自我を保っているに過ぎない。
そうでなければとっくに狂人だ。
こんな少ない手取りで、一体どうやって暮らせばいいんだ?
Twitterで投資の話を盛んにするプチブル共の医師や弁護士が憎い。
私にはそんなお金はないのに。
老後に2000万貯められずに部屋の黒いシミになる運命だ。
都市部の金持ちで容姿が整った知識人階層が憎い。
地方の哀れで矮小で無学なチー牛の自分自身が憎らしい。これは逆恨みだ。意味もない。
悪いのは頭が悪い低給与のチー牛の自分で、顔の見えないネットでさえも女性から嫌悪される私なのだから。
理性的に考えれば、これらはマイケル・リンドの『新しい階級闘争: 大都市エリートから民主主義を守る』で唱えられた、先進国は大都市で働く高学歴の管理者や専門技術者から構成される少数派の上流階級と、土着の国民と移民とに分裂した多数派の労働者階級との間に分裂した、という仮説そのもので、自分でも笑えてくる。
とにかくだが、そんなこんなで私はほぼ虚偽的な個人的信条なんかに頼ってやっと生きている。誰か助けてください……。
車椅子問題7──「身体障害者」はずるい?精神障害者たちの本心──
さて、私の惨めで冗長すぎる愚痴は置いておいて(というかこの記事はかくの如き要素でほぼ成り立っているが)車椅子問題戦争は極限まで広がった。最後の戦い、それは第二次世界大戦ヨーロッパ戦線で言えばドイツ本土の戦いにして首都ベルリンの攻防戦である。
ベルリンの戦いでは圧倒的な戦力の連合軍を前にドイツは非戦闘員の少年、老人までもを武装化させ(国民突撃隊)戦わせた。これまでの激しい戦いで損耗した(かつての精鋭だったドイツ陸軍の象徴であった)僅かな残存の装甲部隊も尠少な燃料と弾薬が尽きるまで戦った。
もう勝ち目のない戦いにおいて、もはや無意義であり血を流す必要はないのにドイツ人は戦闘を続け、その有り様を見たある連合軍将校は「ナチズムとドイツ人の狂信的(fanatical)な戦争への国家体制は、皮肉なことに今際の時に最も発揮された」と称した。
往々にして、戦争の最後ほど最も戦闘は苛烈になるのである。
それは当車椅子問題にしても同様だ。
この記事で扱う最後のTwitterでの論点は「現代においての社会的弱者は誰か?」である。
当該車椅子利用者をイオンシネマの一般女性スタッフが介助した旨を先述したが、それに対して「身体障害者は特権階級だ、おそらくイオンシネマの女性スタッフは非正規労働者が多いだろう。彼ら彼女らこそが真の弱者なのである」という意見が出た。
この意見は初期から孤発的には見られたが、いつしかこの主張が一大勢力となった。
この意見は極度に複雑であり、歴史的背景や、政治的主張、各々の就いている職やサラリーの額などの多様なパラメータが関係する。
そのため、ここでは定めし正解など出せるはずがないだろう。
あくまで私の見るごく狭い範囲の世界という限定条件付きで解説したい。
日本語版ウィキペディアの「社会的弱者」の記事は英語版ウィキペディアでは「Disadvantaged(不利な条件に置かれた)」というタイトルになっている。
そこで挙げられている定義は2つだ。
(1)身体的または精神的な障害など、特別な問題に直面している。
(2)金銭的、経済的支援の不足。
つまり、単に社会的弱者と言った場合、身体障害者も低給な非正規労働者もどちらも当てはまる。
もっと正確に言えば、低給な非正規労働者でも俗に言う「103万の壁」「130万の壁」のために意図的に給与を低く抑えている者もいるので、その人達は別だろうが、できればもっと高給がほしい、福利厚生の良い正規社員枠で働きたい、と思っている層は社会的弱者だろう。
要するに、社会的弱者同士の内戦が始まったのである。
(知的障害について言及すると論が複雑化するので今回は省きたい。余力のある読者の皆さん、私の代わりにやってくださいね、お願い!)
戯れに諸君らの眼の前のスマホで、Googleの検索エンジンで「身体障害者 羨ましい」と検索してみてほしい。
精神障害者が身体障害者を羨望の眼差しで見ているのがわかる。社会的弱者の(1)の定義の障害者内でも対立分断がある。
かく言う私も激務で精神を壊した精神障害者であり、閉鎖病棟に入院していたこともある
(そのためこのような要領を得ない支離滅裂な意味不明な記事しか書けないのだ、すみません……)。
このため、精神障害者の生の声を聞く機会も多い。
彼らは「障害者雇用は身体障害者ばかり採用されてきた。2018年に精神障害者の雇用が義務化されて、まだまだ採用数に格差はあるが、やっと報われた気がする。正直、羨ましかった。」と訴える。
言うまでもなく、彼らは同じ特例子会社等で働く身体障害者の同僚にはそんなことは言わない。
精神障害者同士の飲み会でのみ上がるリアルな意見である。
(なお、実際に精神障害者の障害者雇用は近年増加している。一方今まで優位だった身体障害者の採用は伸びが鈍化しており、未だに優位であるものの遠い未来には差はなくなるかもしれない)
私は精神障害者側なので、精神障害者の意見も率直に言って理解できるが、身体障害者側も同じように「精神障害者は羨ましい」と思っているのではないだろうか?
精神病で大脳が器質的に変化していたとしても、大方の精神障害者は自立歩行はできる。
しかし身体障害者はどうしても介助が必要な機会も多い。
視覚障害や聴覚障害は近辺への外出さえ不安な者も多いだろう。
盲導犬、聴導犬はそのために存在する。
ここで、精神障害者と身体障害者はどちらがより弱者なのかは判別しがたい。
そもそも精神障害と身体障害にも程度や本人の環境や比較対象とすること事態が不適切といった要素もあり、個別具体的なケースを取り上げてその事例限りの特殊な結論を出し、一定の了解を得ることは可能かもしれないが、全体を俯瞰した帰着点は出せないだろう。
然れども、現実ではこのような個別のケースで判断を下す事態が数多く発生している。
Anecdotal Evidence(事例証拠)というものである。
追記:なぜ車椅子ユーザは同じ身体障害者から批判されたか?
同じ身体障害者の間からも今回の車椅子ユーザの投稿や行動に対する批判が生じたが、彼らは市民と融和したいと考えている。
先の川崎バス闘争がわざと市民に迷惑をかけることで自身の主張をアピールしたのと真逆である。
これらの方針は東京大学の佐藤泰裕らの研究『国際化と移民の社会的統合に関する研究』が参考になる。
外国人移民の例だが、「多数派の受け入れ姿勢は、少数派に意図せざるメリット(外部経済)をもたらす」のである。
この論文の場合多数派は日本人、少数派は外国人移民だが、これは多数派=健常者、少数派=身体障害者と置き換えることができるだろう。
多数派(健常者)の受け入れ姿勢を引き出すことは、少数派(身体障害者)にとって想定外のメリットをも生む。
であるならば、車椅子ユーザへ反対の意見を表明した身体障害者たちは、移民が日本の文化に融和・統合しようと努力するように身体障害者も同様の努力をすべきである、という考えであろう。
この論文では「少数派の社会的統合を促す政策は、多数派の反応を考慮する必要があり」としているが、少なくとも社会的統合を目指す奮起は否定すべきではないし、身体障害者側も内乱に突入すべきでもない。
私は単純に車椅子問題を外国人移民問題にリプレイスしただけなので、これでどちらが正しいかの決着をつけることはできないが、車椅子ユーザを批判した身体障害者たちの意見にも道理があるのだ。
逆に言えば車椅子ユーザの問題提起的行動も道理が同様にある。
車椅子問題8──「障害者」は特権階級?ワーキングプアの健常者たちの本心──
(2)の金銭的、経済的支援の不足であるが、これらは日本ではあまり社会的弱者と見なさない者もいるだろう。
ところで、世帯の所得がその国の等価可処分所得(世帯の可処分所得を世帯人数の平方根で割って調整した所得)の中央値の半分を貧困線とし、それに満たない状態のことを「相対的貧困」と呼ぶ。
この相対的貧困率は徐々に上昇し、現在の日本の相対的貧困率は15.4%だ(2022年国民生活基礎調査)。これは30年前より1.9ポイント高い値で、先進国で最悪の数値となっている。
よくTwitterでは過激なアルファツイッタラーたちが盛んに、生活保護はもらい過ぎだ!生活保護を減らせ!働かないのは甘え!とアジテーションしインプレッションを集め小銭稼ぎをしている。
彼らは良識派(私はこういった者も苦手だ、なんせ彼らは知恵が回り権威的だからね)に批判され、激しい論戦──と言う名の罵詈雑言──を繰り広げているが、生活保護に敵意を燃やす者たちの気持ちも、私自身が底辺労働者なのでわかってしまう。
我が国においては必死に働いてはいるけれども、中には生活保護水準以下の給与で生活しているワーキングプア(働く貧困層)が多数いるのである。
しかもワーキングプアたちは先に上げた「103万の壁」「130万の壁」を気にして計画的に勤務を減らしているわけではない。
過酷なサービス残業や最低賃金を下回る違法な状態で長時間働いているのにもかかわらず貧困に喘いでいるのである。
信じられないかもしれないが、社会にはサービス残業どころか最低賃金を守らない会社もザラに存在するのだ。色々と屁理屈を付けて。
これらのワーキングプアの理由の一つとして1986年に一部専門職で解禁され、順次拡大してきた派遣という制度がある。
それまで派遣は「使用者責任が不明確になる、中間搾取によって労働者が手にする賃金が減少する、雇用が不安定な労働者が増える」という労働者保護のために禁止されていた。
それくらい派遣労働というのは労働者にとってデメリットが大きいものなのだ。逆に言えば企業にとっては多大なメリットが得られる。
それが、特にバブル崩壊後の景気悪化の中で企業に「すぐに解雇できる便利な労働力」として派遣社員が大いに求められ、派遣の対象業務が原則自由となり、禁止業務だけが定められるネガティブリストの形がとられるようになった。当初の労働者保護の精神は消え去ったのである。
更にこれらは民間企業だけの問題ではない。
官製ワーキングプアという単語があるように、非正規化が進んだ公務員でさえ働く貧困層に陥っている。
バブル時代は民間企業と比べた際の賃金水準の低さから軽蔑されていたが、バブル崩壊後は打って変わって羨望と嫉妬の視線で見つめられ、今でも中高年層にネットで特権階級だと叩かれまくるあの公務員が、である。
ここで理屈を言えば、労働していても、収入及び資産が国の定める最低生活費に満たない場合には生活保護を受給することができるため、積極的に生活保護制度を利用すべきだ、となる。
しかし、私自身が経験しているのだが、市役所の職員は水際作戦を実行し、生活保護申請を提出しないように言葉巧みに誘導する。
市役所の職員側にも上から生活保護費を減らせという圧力があるだろうし、彼らは生活保護受給者を見下し、嘲笑い、まるで基本的人権が存在しないただの肉塊と思っているフシもある。
精神病による失職と貧困で食べるものがなく身も心も衰弱し、やっと市役所に行った私は、ここで市役所の職員たちの態度に呆然とした。
あのような態度を取られれば、よほど強い意志と反論できる明晰な頭脳がないと対処不可能だ。
精神病で精神が蝕まれ、生来痛ましいほど知能劣る私にはそんなものはなかった。
職員との会話……というよりも圧迫面接のような激詰めの結果、私は泣いて顔面を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしながら、ただ市役所を後にするしかなかった。
簡単に生活保護を受ければ良いという人はこのような状況を知らないのだろう。
実のところ、日本弁護士連合会の資料(『知っていますか?生活保護のこと~生活保護制度の正しい理解と活用のために~』)によると日本の生活保護捕捉率は高く見積もっても20%程度だという。
生活保護捕捉率とは生活保護を利用すべき生活水準・給与水準であるため生活保護を利用している人の割合である。
おおよそ生活保護を受けるべき者の80%がワーキングプアなのに生活保護を利用できていない。
私のようにわらにもすがる思いで市役所に行ったのに追い返された者も多いであろう。
なお、諸外国の統計ではドイツでは失業手当Ⅱ(通常の失業保険給付(失業手当Ⅰ))の受給期間を満了しても再就職できず、経済的に困窮している者に支給される)の捕捉率は85~90%、イギリスの所得補助の捕捉率は87%となっている。
このデータを見ても、日本で生活保護を受給するのが困難とわかるだろう。
付け加えると、生活保護は不正受給が多いとイメージで語られるが、実際は厚生労働省のデータ(『生活保護制度の現状について』)では2020年度の生活保護負担金のうち不正受給の金額の割合は約0.36%に過ぎない。
この不正受給の理由の約6割を占めているのは、稼働収入の無申告と過小申告である。
例えば、生活保護を受けている世帯が高校生のアルバイト収入を申告していなかった場合なども無申告に該当し、世帯主の収入を少なく申告した場合は過小申告となる。
完全に悪意を持った人間が生活保護を不正受給しているケースは非常に少ない。
少ないからこそ狡猾な詐欺師や、暴力団、芸能人が悪意のもと生活保護の不正受給をしていたのがバレると大問題になるのだ。
もっと突っ込んだ話をすると、暴力団も芸能人も仲間内で「生活保護をゲットする裏マニュアル」とでも言うべき闇のノウハウが蔓延していたという事情もあるが、割愛する。
車椅子問題9──社会的弱者たちの憎しみ合いと社会に対する無力感──
こんな状況を知れば、ある点では非正規労働者は社会的弱者と見なすことが完全に間違いではないのもわかると思う。
長々と書いたが、では再び問う。
「障害者(今回の車椅子ユーザ)と非正規労働者(イオンシネマのスタッフ)どちらが弱者なのか?」。
今回の車椅子問題が健常者側から大きな反発を生んだ理由の一つがこれである。
身体障害者は各自の症状をもとに日本年金機構が審査し、認められれば障害年金をもらえる可能性もある。
もちろん身体障害者より審査はかなり(というか極端に)厳しいが精神障害者も同様である。
困窮している労働者から見れば、これらは障害年金の社会的経済的役割やその額を十分認知していても羨ましいと思ってしまう人がいてもおかしくない。
人間は感情的に判断する動物である(感情神経科学という最新分野があるくらいだ)。
いくら理性的に、論理的に説明されても羨ましいという感情は止めることは出来ない。それを他人に言うか内に留めるかの違いだけである。
反復するが、本来は障害者も非正規労働者もどちらも社会的弱者であり、その困難さ、苦痛さは比べるものでも、比べることを試みることでもない。
むしろ内紛せずに弱者として連帯すべきだと思う。
イオンシネマのスタッフたちに対する同情の声には次のような主張もあった。
「社会的弱者である非正規労働者の私達は、今現在も最低時給で働かされているのに、改正障害者差別解消法だか、合理的配慮だか知らないが、私達の仕事を増やされるのはごめんだ!」というものである。
これは非常に率直な意見だ。
確かに今回の事例で言えば、車椅子利用者を階段上へ引き上げるのは現場としては単純に仕事が増えることである。
(法的には「その実施に伴う負担が過重でないとき」に「合理的配慮」は行われると知っていても、現場の労働者の心配は拭えないだろう)
もちろん、企業は労働者に介助訓練の実施などを行う(だろう)が、そんなことをしても決して1円の手当ももらえない、とみんな思っているし、現状認識としては(それが正しい予測かはさておき)、人員を増員させる見込みもないとみんな認識している。
また、労働者たちのこの推察が正解かはわからないが、企業が建築物の大幅な改修をしてスロープを設置するとも労働者は思っていない。
結局最も安価な手段である、非正規労働者のマンパワー(人力)に頼ると思っている。
資本主義下において企業は労働者を燃料に、燃費の悪いガスタービンエンジンを吹かし、労働者を使い潰しながら利潤を追求する。
現代の労働者の深い失望がそこに存在する。
労働者が思い浮かべるのは「どうせ増えた仕事は、全部私達に押し付けられるのだろう!」という一念のみだ。
無論、ここで理想を語れば、社会的弱者である労働者は連動し、仕事を増やす企業に人員配置や賃上げを求めるべきだ、敵は同じ社会的弱者の障害者ではないのだ!民衆よ、連帯せよ!汝の部署を放棄せよ!汝の価値に目醒むべし!ということになるし、確かに何もしないよりもこちらのほうが現状の改善を志向しているため、生産的な面があるだろう。
けれども、我々底辺労働者は身を持って知っているのだ。
そんな要求が通らないことを。
声を上げる者は弾圧され、左遷され、排斥される。非正規労働者ならなおさらだ。
誰もが今の仕事を失うことを恐れている。
非正規雇用の従業員は、多くが労組に組織されていないか、あるいは、地域一般労組(一定地域で働く労働者を、企業や産業にかかわりなく組合員として組織する労働組合)に加入している。
地域一般労組は、個々の組合員の雇用関係上の問題を使用者と交渉して解決する、という個々の労働者の代理人的な役割を果たす点では、積極的な活動を展開しているものの、産業や企業のレベルで多くの労働者を組織するには至っていない。
そのため、地域一般労組が、一定の労働者集団の賃金水準を上げるためにストライキを実施することは、現実的に困難である。
また、正社員の労働組合も数々の理由から組織率は年々下がっている。もはや強力な労使交渉機関とは言い難い。
しかし、現代はVUCAの時代だ。
VUCA、つまりVolatility(変動性)、Uncertainty(不確実性)、Complexity(複雑性)、Ambiguity(曖昧性)である。
労働者が、環境変化による失職リスクや労働条件の低下リスクを乗り越え、キャリアを築いていく重要性は高まっている。
そのため、雇用の継続や賃金や労働条件の改善など、従来の労働組合が果たしてきた役割は、むしろ高まっている。
つまり、労組の力が大幅に低下しているのに、一方では労組の役割は重要となっているというアンビバレントな、不可解な状態となっているのである。
だから、労組の防禦力がない中、上層部に抗議したり歯向かうのは絶対避けたい。
非正規職ならなおさらだ。
『半沢直樹』シリーズは主人公の半沢直樹が正社員という身分が保証された人間だから「倍返し」が成り立つのである。
もし非正規労働者が同じことをしたら即刻解雇されて終わりだ。
かかる諸条件から、労働者ができるのはTwitterで「面倒を押し付けてくる『特権階級』たる障害者(と彼らがみなしている)」に対する憎悪を、ただ吐き出すことだけである。
それが正当な主張か、誤った主張か、はたまたそれを表明することがどんな政治的要素を持つか、それがなんの慰みになるのか……等を考えるでもなく、ともかくそんなことをしないとやってられないのだ。
これは、居酒屋でやけ酒を飲むようなものだ。
そんなことしても何も起きないし、一時的にエタノールで脳が麻痺するだけで解決もしないし、お金は減るし、二日酔いになるしでいいことはない。
でも、しなくてはいられないのだ。
なお、当の底辺労働者の私がTwitterで一切車椅子問題に触れなかったのは、車椅子問題の是非や政治的主張のような高い次元のかっこいい話ではなく、更に低次の話で、単純にTwitterというプラットフォームでは議論は成り立たないと思っているからである。詳しくは私の前回の記事を読んでほしい。
https://note.com/19390901/n/n72fb90b7a598
しかして、我々のこの気持ちは当事者にならないとわからないだろう。
憫然で、不憫で、痛ましく、侘しく、毎日腹をいっぱいにするために含水炭素と油分以外の栄養はないが、安価でカロリーだけは摂取できる菓子パンを食べる惨めな我々の気持ちが。
日夜、こんな荒んだ暮らしをしているのが我々プレカリアートなのだ。
今や、資本家と労働者だけではなく、ガイ・スタンディングが予言したように、プロレタリアートとプレカリアートも対立するのである。
かつて竹中平蔵は日テレの『深層NEWS』で「正規社員が非正規社員を搾取する構造になっている」と持論を展開し、案の定ネットでは分断工作だとボコボコに叩かれたが、実は正社員への憎しみを持つ非正規社員はかなり多い。
試しにTwitterで「正社員様」というワードで検索してみてほしい。
このように社会に虐げられた非正規社員にとって「特権階級の正社員様」への怒りは爆発寸前で、例として2008年に起きた秋葉原無差別殺傷事件がある。
当初、この事件は「犯人の加藤は非正規労働者であり、将来に希望を失い、事件の動機になったのだ。これは我々非正規労働者の怒りの代弁者であり、加藤は聖人として列聖されるべきである(そうまさしく、METALLICAのSt.Angerだ)。」と大真面目に唱える者がネットにいた。
これは、「加藤イズム(加藤主義)」という名前でネットの暗部で熱狂的支持者を得ている(得ていた)。
彼のネットへの書き込みは非正規労働者の「聖典」であり、まるでアブラハムの宗教における「預言」であった。
このあたりのネット関連の記事は検閲が入ったのかわからないが、あまり残っていないけれども、こういったサイト(https://plaza.rakuten.co.jp/whatman/diary/200806200000/)でかろうじて今も存在を確認できる。
付け加えるならば、犯人の加藤は、実際は職務経歴上、正規社員の職を何度も得ており、自身の身勝手すぎるわがままで無断欠勤からの退職を繰り返していた。
彼には友達もいた。加藤イズムで信奉されたような人物では決してなかったし、本人も弱者の神として祭り上げられるのを生前ひどく嫌っていた。
実にアイロニックである。
このように、社会で精神も肉体も擦り切れ、怒りと憎悪で動くマシーンとなった我々労働者にもう戦う気力はない。
疲弊した人間は近視眼的となり、どうしても目の前の厄介事のみに注意が向いてしまう。
スズメバチの巣を悪ガキがエアソフトガンで撃ち落としたとして、警報フェロモンを大量放出したスズメバチたちが怒り狂って、距離の離れた悪ガキではなくそれより近くに我々に襲いかかってきたとする。
スズメバチたちは不当に攻撃されたから反撃しているだけでいわば被害者だが、襲われている我々にとってはそんな事情はどうでもいい。
結局は眼前の厄介事のスズメバチの対処に全力を注ぐしかないのだ。
このような、私が提示してきた数々の要素の結果起きたのが、今回の「社会的弱者は誰か?」論争であり、そこには我々社会的弱者の構造や、社会的弱者による憎悪のぶつけ合いの市民戦争(Civil War)、非正規労働者の悲しみや絶望、諦念、国に棄民されたという思いが色濃く反映されているのである。
みんな生きるのに必死なのだ。
社会運動をする、社会運動を考える余裕すらないのだ。
衣食住さえ欠く者がいる具合である。
私も底辺生活をしているので実感を持って理解できてしまう。
ありきたりな言葉だが、得てしてこういったものは本質をついている──結局は社会が悪いのである。
我々自身が形作り、参画し、改良し、変革させ、時には停滞させ、衰退をもさせる、我々の社会が。
我々はニーチェの例え話(『喜ばしき知恵』)に出てきた、昼間にランプをもって彷徨く狂気の人と同じだ。
我々はネットで、通りで、駅で、職場で人々にこう言うしかない。
「社会がどうしてこんなことになったって?」
「お前たちに言ってやろう。我々が社会をこんな風にしたのだ──お前たちと俺が!我々はみんな同様に社会の破壊者だ。」
終わりに
足りない頭なりにTwitterの車椅子問題について考察をしてみたが、正直まだまだ考察が不足している。
例えば、社会的弱者の箇所では、私に深い知識があればもっと説得力のある理論展開と詳細な現状分析が可能だろう。
そのあたりはどうか、時間のある頭の良い方に任せたい。幸いなことにネットにはそのような有閑階級がたくさんいるのだ。
私としては、完全な自己満足であるが、車椅子問題の各種論争とそれに対する推察をまとめられて脳内がスッキリした気分だ。
私の観測範囲の論争なので大きな抜けがあったりするだろうし、仕事もしているので、四六時中Twitterを見ていたわけではないため、不完全にも程があるのは明白だ。
そこも、車椅子問題に盛んに言及していた、いわゆるソーシャライトな方々に一任したい。
私のこの記事は一人のプレカリアートの書いたものであるからだ。知的エリートのブルジョワジーの視点で書いた記事が個人的にとても見たい。
誰か書いたら私に教えてね。
それにしても私のnote史上一番長い記事となってしまった。すっげえ
時間かかったゾ~これ。こんなの誰が読むんですかね……。
実験として画像を入れてみたりしたけど、美的センスがなくて、んにゃぴ、よくわからなかったです。
なぜこんなどうでもいい、人に読まれるような明るい記事でもないのに、卒論並の情熱を向けたのか、コレガワカラナイ。
馬鹿なのかな?馬鹿だよね……。
もしここまで読んでくれた方はもしお金に余裕があったらお金を恵んでくださるとありがたいですm(_ _)m
冗談抜きに本当に貧困のため……
ここまで読んでくれた奇異な方がいたらの話ですが……。
参考文献(順不同)
・判例時報社 『判例時報1333号』
・英語版ウィキペディア『Disadvantaged』(https://en.wikipedia.org/wiki/Disadvantaged)
・同上『Labor history of the United States』
(https://en.wikipedia.org/wiki/Labor_history_of_the_United_States)
・同上『Allergy to cats』
(https://en.wikipedia.org/wiki/Allergy_to_cats)
・National Park Service『African American Civil Rights Network』
(https://www.nps.gov/subjects/civilrights/african-american-civil-rights-network.htm)
・蔵永瞳、樋口匡貴、福田哲也『感謝された後に向社会的行動が起こるまでの心理過程』
・神奈川県庁『車いすの介助方法について』(https://www.pref.kanagawa.jp/docs/yv4/cnt/f5075/p15108.html)
・厚生労働省『生活保護制度の現状について』
・同上『2022年国民生活基礎調査』
・日本障害者リハビリテーション協会『ノーマライゼーション 障害者の福祉 2016年5月号』
・The Japan Times『Has striking in Japan become extinct? 』(https://www.japantimes.co.jp/community/2015/06/28/issues/striking-japan-become-extinct/)
・日本弁護士連合会『知っていますか?生活保護のこと~生活保護制度の正しい理解と活用のために~』
・廣野俊輔『川崎バス闘争の再検討 : 障害者が直面した困難とは?』
・佐藤泰裕『国際化と移民の社会的統合に関する研究』
・フリードリヒ・エンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態』
・山之内靖『総力戦体制』
・デイヴィッド・ガーランド 『福祉国家:救貧法の時代からポスト工業社会へ』
・マイケル・リンド『新しい階級闘争: 大都市エリートから民主主義を守る』
・河合雅司 『未来の年表 人口減少日本でこれから起きること』
・土居丈朗『入門財政学[第2版]』
・坂本達哉 『社会思想の歴史―マキアヴェリからロールズまで』
・竹信三恵子『官製ワーキングプアの女性たち――あなたを支える人たちのリアル』
・ぜろよん『ざーこざこざこざこ先生』
・石井光太『世界と比べてわかる 日本の貧困のリアル』
・アントニー・ビーヴァー『ベルリン陥落1945』
・藤藪貴治 、尾藤廣喜『生活保護「ヤミの北九州方式」を糾す: 国のモデルとしての棄民政策』
・ジェームス・M・バーダマン 『黒人差別とアメリカ公民権運動 ―名もなき人々の戦いの記録』
・ガイ・スタンディング『プレカリアート: 不平等社会が生み出す危険な階級』
・ニーチェ『喜ばしき知恵』
この他にもいろいろ本読んだり、昼休みとかにスマホで適当にネットブラウジングたくさんしたけど、そのへん全く記録してないので忘れてしまいました。
許してください……もう今現在、仕事終わりに書いてるこの時点で疲れすぎて頭が働かない。助けてください……。
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