第1回「ガロ」編集長 長井勝一
凡天太郎の画業の始まりは、戦後すぐの街頭紙芝居までさかのぼります。特攻隊から復員した凡天太郎は当時18歳。当時上野と京都にしかなかった美術学校を受験。上野は不合格となり、昭和22年3月に京都絵画専門学校(京都芸大の前身)に入学。洋画・日本画・図案・彫刻の四科のみうち、洋画を専攻。
この絵画学校の学費使い込み分の穴埋めに手掛けた仕事が紙芝居で、当時の大ヒット作『黄金バット』の作者であり紙芝居業界のトップだった加太こうじに弟子入りします。
「凡天太郎って人は、どの世界にいても一番才能が豊かだったんです。
いわゆる庶民大衆の中では目立つ存在だったわけなんですね。紙芝居の絵描きとしても人気があったんですよ。紙芝居の世界から劇画の世界に一番早く入ったのも凡天太郎です。その後で白土三平、水木しげる、小島剛夕なんかが劇画の世界に入るんです。ただ、凡天太郎って人は一直線じゃないでしょう。特攻隊くずれで、いっぺん捨てかかった命だっていうんで、いろんなことをやるでしょう。みんなの面倒を良く見たんですよ。だから、加太こうじが大ボスだとすれば、二番目の中ボス的存在だったんですね。まあ凡天太郎のことをひといくちで言えば太平洋戦争敗戦後の混乱期が産んだ天才ですね。」(加太こうじ氏談)
(白夜書房「ヘビースキャンダル」創刊号掲載「フォト・ルポタージュ 刺青師・凡天太郎、竹中労を彫る」)より
学校は単位さえ取れれば良いため、京都の学校に通いながら東京で仕事することは可能だったようです。そんな学生アルバイトにすぎない絵描きが、加太に次ぐ実力者のポジションだったというのは凡天の親分肌を物語るに十分。
支払いの悪い紙芝居の元締めを脅したところ「ダメだよ、んな、やくざの親分脅かしたら命無くなるよ」と加太に咎められたり、二か月ほど吉原に入り浸り女郎屋の客引きに描いた紙芝居を渡して貸元へ使い走らせたりする。そんな紙芝居の絵描きは凡天太郎くらいでしょう。
客が揉め事を起こしたら用心棒として飛び出していくくらいの局面が2度や3度はあったのではないかというシチュエーションに思えます。
そしてその翌年。「読売新聞」昭和23年9月17日付第2面に「漫画家求む」の2行広告が掲載されました。広告主はのちの「ガロ」編集長である長井勝一。
「B六判で横開きの六十四ページ、表紙は粗悪なマニラボール紙によるくるみ表紙。表紙は四色で、本文二色、それを針金とじにしたものが、このころに一番ふつうの形だった。定価は、初めのころが二十円で、これが四十円、六十円とあがっていったと記憶している。こんな本を二十冊ばかりつくった。」
(長井勝一『「ガロ」編集長 私の戦後マンガ出版史』筑摩書房、1982年、79P)より
当時、こういった体裁の冊子は赤本と呼ばれました。後にも先にもこの1回しか出していない募集広告にすぐ呼応し「筆で描いたマンガらしきもの」を持ち込んで赤本作家デビュー、実質のマンガ家デビューを果たします。
戦後の街頭紙芝居のピークは昭和24〜25年頃。赤本ブームも長くは続きません。凡天太郎は景気が良い場所に店を広げ、下火になる前に切り上げて、また別の場所で商売を始める「テキヤ感覚」を使って画業で渡世していると言っていいでしょう。
そう考えれば前述の加太の発言「紙芝居の世界から劇画の世界に一番早く入ったのも凡天太郎です。」が特別な意味を持ってきます。
さらに、在学中の凡天に決定的な出来事が起こります。
刺青との出会いです。
(つづく)
映画『刺青』について
この凡天太郎が自身の世界観を詰め込んで製作した『刺青』という映画があります。40年間封印されたままとなっているノーカット版(86分)の35mmネガフィルムを4Kリマスター化するクラウドファンディングを6月26日まで開催中です。
ブルーレイをはじめとしたアイテムはすべてリターンを目的として製作する贈呈品ですのでお見逃しなく!