死んだら星になるなんてごめんだ
死んだら星になるなんてごめんだ。焼かれて埋められるのも嫌だ。私は死んだら海になりたい。そうしたら雲となり、雨となって、地上に降り注ぎ、海に還るのを繰り返すだろう。
そも、生命の起源を辿ると、諸説あるが宇宙から降り注いだ有機物が海に溶け込み、海底の熱水噴出孔からアミノ酸や遺伝物質などが生み出され、それらが原核生物へと進化し、やがて多細胞生物、無脊椎動物が現れ、最後にわれわれ人間の祖先が現れたのであります。つまり、すべての始まりは海なのであります。
人間は羊水から生まれる。そして、羊水と海水の構成成分は似ているという。ここに偶然とは思えない因果を感じる。だから私は海になりたいのだ。
思えば、認知症の老人たち。彼・彼女らはどんどん耄碌し、やがて食事や排泄さえ一人でできなくなる。まるで赤子に「戻っていく」ように。赤子のそれは単に心身が未発達だからであり、老人のそれは脳の神経細胞(ニューロン)が死に至ることによって引き起こされるものであって、両者の根本は別物である。されど、ここにもなにか不思議な繋がりを感じるのだ。人間は循環するのではないだろうかと。
生きるとは循環である。食べて、大小便をして、眠って、目覚めて、また食べる。死んだらその肉体は分解され、大地を肥沃にし、それを栄養に植物が育つ。それを小動物が食む。それを肉食獣が食らう。そして生き物は皆等しく死ぬ(今ベニクラゲの話したの誰?あっお前か?これから毎回信号で引っかかる呪いかけたからな)。分解される、の繰り返し……食物連鎖である。初めてこれを学んだとき、なんてよくできたシステムなのだろうと惚れ惚れした。某チェーン寿司店の、皿を5枚流すとガチャガチャを回すことができ流された皿は自動で洗浄されるシステムを知ったときと同じくらい感銘を受けた。いや生命と寿司一緒にすな
こんなくだらないことを考えるのは私がロマンチストだからだろうか。さっき寿司屋の話をしたせいで今猛烈にアナゴが食べたい。生きるとはアナゴである。
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