大学の思い出を振り返ってもずっと一人

冬の根暗日記。大学生活は嫌なことも多かったけど楽しいことも多かったし、この大学を選んで良かったと思っている。でも今後振り返ったとき、思い出の中に友達っていう存在が一人も出てこないのはやっぱり少し寂しい気がする。普通にしてたら友達できるだろとかいう悪口は……やめようね!普通だったらこんな記事書いてねーよ。
仲良しの子と同じ授業に出て一緒に帰りがてら喫茶店に寄ったり、天気の良い日にキャンパス内の芝生広場でランチを食べたり、文化祭を一緒に回ったり、そういうのに憧れがあったけど、結局どれもできずじまいだった。一人の方が気楽だしそれはそれで楽しいこともあるから気にならなかったけど、知り合いがいつも友達と楽しそうに過ごしてるのを見ると虚しい気持ちになる。4年間の大学生活で、最初の2年間はコロナ禍で潰れたとはいえ、一人も友達ができなかった私はやっぱり人間的な欠陥があるんだなと認識せざるをえない。

物心ついたときからずっと自分の性格が嫌いで、自分に自信がないから「お前も腹の底では私のことバカにしてんだろ」という考えが常に根底にあって、だから誰のことも信じられなくて壁を作るし誰とも仲良くなれないんだろうな、とふと思った。
人とうまく話せないことをカウンセラーさんに相談したら「ケツさんにはケツさんの良いところがあるから無理に自分を変えなくてもいいよ」と言ってくれて、それが優しさからくる言葉であることは分かってるものの、でもこんな自分が嫌いなんだもん。と黙って下を向くことしかできなかった。
自分が嫌いで自分を変えたい。でも、そのままの私にも魅力があるという綺麗ごとを信じたい自分もいる。自分を変えるのはすごくエネルギーがいることだし、辛いことの連続かもしれないし、頑張っても報われないこともある。努力が報われないっていうのは人生丸ごと否定されたみたいな気分になる。

私は自分では優しい性格だと思ってたんだけど、人からとっつきにくいとか冷たいとか思われることが多いらしい。考えたらどこに行っても人寄ってこないしね。他人を心配する心はあるけど行動には移さないし、損得勘定で動くし、あとシンプルに人相が悪い。なんか「ケーキの切れない非行少年」に出てきた、自分のことを優しい人間ですと言った殺人犯の少年を思い出す。これは私が思ってた以上に自分を客観視できてなかったってことなのだろうか。でも自分のことを一番よく知っているのは自分のはずだし、見ようによっては優しいともいえるんじゃないだろうか。お釈迦様が蜘蛛を助けたカンダタに良心を見出したみたいに。

閑話休題。とはいえ大学生活が楽しかったのは本当だ。学食はおいしかったし、キャンパス内は清潔で職員さんも親切だし、図書館で好きな科学雑誌が読み放題だったのがすごくうれしかった(高くて自分ではなかなか買えないため)。関心のある授業は本当に面白くて見識が広がったし、授業のことで質問してもほとんどの先生が熱心に付き合ってくれた。あとトイレの便座があったかい。
嫌だったのはレポートが苦手で本当に書けなくて、ゼミにも馴染めなくて、私立だから金持ちで身綺麗な生徒が多くてその劣等感もあったし、高校もまともに行けてなかった私が進学した程度で変われるわけなかったんだって自信がどんどんなくなって、、それなのに親に高い学費を払ってもらってるのが本当に申し訳なかった。だから学費を無駄にしないためにもせめて勉強は頑張ろうと思って、授業は毎回ちゃんと聞いて、教科書を読み込んで、ノートも取って、自分なりに努力した。でも、3年生になった頃にゼミの人がみんな当たり前のように友達とテストや課題の答えを教えあっていて愕然とした。たぶん友達と協力する側の人からすれば私の行動の方が効率悪くて意味不明に映るんだろうけど、なんていうか、授業は全部出席してテストや課題は自分の力でやるのが当たり前だと思ってたしそう教育されてきたから、誰かと協力するっていう発想がまずなかった。しかも先生が「友達と協力してやるのはやめてください」という注意書きをわざわざ書いていたにも関わらずそれを無視する奴がこんなにたくさんいるのがショックだった。でも周りの大多数の人は平気で授業を何回も休むし、出席しても喋ってばかりだし、注意されてもまたすぐ喋り出すし……。なんでわざわざ出席取らない授業に出てきて喋りに来るのか分からない。発表系の授業でも、人が頑張って作ってきた成果を発表してるのに平気で喋ってるし、誰かが話してるときはその人の方を向いて話を聞くって幼稚園から教育されてきたけど当たり前じゃなかったの?なんで大学に来て小中学校に戻ったみたいな気分を味わわないといけないの?……と、クソ真面目に頑張ってきた自分がバカバカしくなって、改めて真面目でいいことなんかないなと思った。人からの信用ぐらいは得られるかもしれないけど、それは当たり前のハードルを勝手に上げられることと背中合わせで、一度ミスしただけでものすごい大事かのように責められることもある。いつも失敗してるやつは「ああ、またか」って笑われてるだけなのに。ノリ悪い、気まずいとかって遠ざけられて愛される人間にはなれないしね。

何を今更って感じだけど、社会で役に立つのは机の上のお勉強よりコミュ力と容姿だと思う。どれだけ勉強ができてもコミュ力がないとそもそも仕事にありつけないし、容姿が悪いと人生の全てにデバフがかかってクソゲーと化す。ブスでも笑ってれば愛嬌が~とかいうやつは本物のブスを知らないんだよ。私は笑うと小鼻が広がってほうれい線がより深くなって目が埋もれて本当に気持ち悪い。本当のブスは笑顔の方がブス。ていうかブスってだけでいないものとして扱われたり、話したこともない人から嫌われてたり、すれ違いざまに笑われたりする。何も悪いことしてないのに。だから人が怖くなるし、誰も寄ってこないから友達を作るハードルも高くて、結果的にコミュ力に悪影響を及ぼす。だから容姿がいい人は基本的にコミュ力も高い。逆もしかり。
もちろん勉強の大切さも分かってる。仕事、というか生きることって勉強の連続だし、こつこつ努力できることや物覚えの良さを客観的に測るツールが学歴なんだろうなと今なら分かる。小さい頃から勉強しか取り柄がなくて(それも中学までの話だったけど)、小中学校の勉強なんてほぼ暗記だからなんにも考えず学校や塾の言う通りにしてたらそこそこの成績をキープできていた。だからきっと自分はできる子なんだとプライドだけは高くなってしまった。実際は頭でっかちなだけで、友達と遊ぶとき普通どこに行くのかとか、若い女の子が着る服はどこのブランドを買えばいいのかとか、そういうものを知らない。成人してるのに一人じゃなにも決められないし、バイトで契約更新書を書くのは上司がやるものだと思いこんで白紙で提出して呆れられた。とにかく教えられてないことは分からない典型的な無能。

だから真面目って言葉は悪口だと思ってるし実際そうだと思う。マジメだね~、は無能だね、つまらない人間だね、という意味だ。言われたら普通にめちゃくちゃ嫌な顔をしてしまう。事実なのに。大学っていう場所では私みたいな勉強だけで騙し騙しやってきた無能が炙り出される。コミュ力を上げようにもつい会話術の本とか読んでしまう。実践するしかないのは分かってるけど、傷付くのが怖いからできない。とにかく精神年齢が低い。髪型とか服装とか立ち振る舞いとかも悪い意味で人と違う気がしてならない。とにかく幼い。ダサい。垢抜けない。自分に自信が持てなくてますますうまく喋れなくなる。だから接客のバイトから逃げて、ゼミからも逃げて、サークルからも逃げた。変わりたい、変わらなきゃってずっと思ってるのに怖くて行動できなくて、部屋にこもってメソメソ泣いてばかり。死ぬまでこうなのだろうか。




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