わたしたちに祖国はあるか
#Shows at Home 「民衆の歌」を聴いた。
心が震えて涙が溢れた。
鍛え抜かれた伸びやかな歌声と、こんなに素晴らしいプロジェクトを立ち上げた胆力と、プロが本気になった時の力強さと。
コメントを見れば、震えたのは私だけではない。
まっすぐに、心の一番深いところに届いてくる。
ダイレクトに明日からの力になる。
この人たちを全力で応援しなければ。
この災難から守り抜かなければ、と思う。
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それにしても、今この時期に、この国でこの歌を聴くというのは、なんだかとても皮肉なものだな。
そう思って、胸の奥がむずがゆいような、暗澹とした気持ちにもなる。
私たちはこの災難の中で、少なからず、この国への失望を明確に感じただろう。
もちろん、正解が何かなんてわかりっこない。けれども、(隣の芝生は青く見えるとは言うけれど)国民に対して真摯な姿勢を見せる他国と比較して、なぜこの国は、と歯がゆい思いをしているのは、私だけではないだろう。
国や政治家だけが、悪いわけではない。
これまで“国”というものに無関心だった、私たちも悪い。
消費税が上がっただとか、お花見にお金を使っただとか、政治家の些細な言動や行動にいちいち噛みつく野党やマスコミを見ながら、それでも、大きく根底から覆されるわけではない日々の生活の豊かさに甘えて、何もしてこなかったんじゃないだろうか?
いつも苦しんでいるのは一部の人たちだけで、その他大勢は、明日、ご飯が食べられるかどうかまで心配はしてこなかったんじゃないだろうか。
日々の生活に困らない状況では、“国家”や“政治”というものの形は見えにくい。
なぜなら、それが正常な国家の姿だからだ。
何事もない日常においては、テレビに出たり、目立つ事のない政治家のほうが、一番、日々の些細な仕事を(私たちのための仕事を)丁寧に行っているものだ。
彼らが私たちの為に、日々どんな仕事をしているか、知っているか?
恥ずかしい話だが、私は、知っているとはとても言えない。
こんなに無知な人間が、批判などできるはずもない。
ただ、国に守られていない、これからの生活が保障されない、という実感。
大切にしたいものたちが無残に失われていく、悲しみと怒り。
自分の住む国が世界に見劣り、後進国に成り下がりつつある焦燥。
そんな無力感に、ただただ打ちのめされているしかない。
きちんと勉強しなければ。
愚痴や不満や、根拠のない批判などではなく、しっかりとした意見を言えるようにならなければ。
そうしなければ、私たちが祖国と呼べるものは、この世から消えてなくなってしまう。
祖国とは、守り、守られるものでなければならない。
―――いまの私たちに、祖国と呼べるものはあるか?