悪意は勝手に読み取られる・・・が?
なんの悪意もなく発したはずの情報が、特定の人にとっては「攻撃」になってしまう。自分がよかれと思って発したメッセージが、まったく逆の「ナイフ」としてとある人にはおそいかかる。
そんな、インターネット、いや、「人になにかを伝えること」の恐ろしさを痛感しました。
たとえばこちらの記事。
Twitterでは人気の話題である「ブロックについて」の話。こちらについて自分なりの視点をズバッとといたのが本記事の趣旨。
おかげさまでたくさん見てもらえており、Twitterでの反応もけっこうきます。
ただ、内容が内容だけに賛否両論がある意見なのも否めません。
ざっくり要約すると
「ブロックはばんばんしろ。それをすれば快適な環境が手に入るんだから。ブロックはその点において自己防衛のツールであり、攻撃では決してない。」
というもの。
ただ、Twitter上の反応を見てみると(これはかなりタブー。メンタルヘルス的にもみないほうがいいのですが、あたくしは怖いものみたさで見てしまう!!ああいけない!!!だが、それでいい(エグい自己肯定感))
そもそもブロック使わなければいけない環境があるのがおかしい。「攻撃じゃない」っていってるけど、それは「攻撃じゃない」ことを押し付ける攻撃だとおもう。
というもの。
自分はこのコメントみかけたとき相当むかついて少しTwitter上で暴れた(インターネット向いてないポイントその2。自分はつくづく何かを発信していくのには不向きだと感じた)のですが、
なるほど確かに一理ある(何様だ)
と思いました。
そもそも、当該感想を抱いた人と私とでは、思考体系や価値観・哲学が大いにことなっているから今回のような齟齬がうまれたのだとおもいます。
私は「イケイケ・行動ファースト派」。
だまってられない、とまってられない。頭より体が先に動く。
彼は「じっくり・思考ファースト派」。
行動をするというよりは、じっくり考えてから動く。
どちらの性質にも素晴らしいものがあり、優劣などはまったくもってないのですが、私の書いた「ブロックしまくれ!!!行動だ行動!!!クソやろうは司視界から排除して自分の認知リソースを省エネ化しろ!!!」という体育会系的な記事が、彼に「攻撃的」と感じさせてしまったんだとおもう。
はっ。そうか。
私は顔に冷水を浴びせられたかのごとく、我に帰りました。
繊細な人の考えを「理詰め」ではわかっていたはずの自分だが、
その考えをはじめて「実感」することで、
自分がまったくわかっていないことがわかった。
Twitterをみかけたあと、ついブチギレで私は「陰キャラキモすぎ」という毒を吐いてブロックしてしまった。最低なやつです。
ただ、冷静になってそのときの自分の行動をふりかえってみると、なんて器の狭い人間なんだ。なんて多様性を認めない悲しい人間なんだ。と身につまされました。
Noteで発信するうえでの態度を、
改めて身につまされているような感じがする
という気分です。
悪意は勝手に読み取られる
でも、
それは決して「勝手に」ではない。
うけとる側にとっては「本当に」攻撃なんだ。
だから、私が「それはナンセンスだ」「攻撃性なんてこめてない」といくら弁明しても無駄。
メッセージは、どう受け止められたかが全て。
ゆえにそれぞれの受け止め方を肯定・否定・評価することはできない。
わたしは傲慢にも「勝手に」という表題からこの記事を書きすすめてしまった。しかし、書いているうちに「勝手に」という表現の過ちに気付き、結論を方向修正しました。実をいうと、タイトルを書いているときは「勝手に悪意を読み取られるからインターネットはくそ」という結論にしたいとおもっていたけど、書いているうちに自分のそのバカらしさ、器量の狭さに気づいてしまい、うそをつくわけでもないのでそのままバカ正直にかいたたこうなりました。
つくづく思う。
自分はインターネット向いていない。
ただ、諦めるのはつまらない。なので、今回のような失敗を現実でもネットでも大量に繰り返していって思いしればいいんじゃないかと思う。そのつど他人を傷つけてしまうこともあるかもしれない。でもどうしようもない。
停滞よりは前に進んでいたいのが自分の性であり、他方それを真逆にしたものをモットーにしている人もいる。両者の違いを俯瞰してみることができるようになれば、より深みのある人間になれるのかな?
そんなことを思った4月1日、新年度のスタートでした。