絶対無を知ってから生じた「神」や「慣習・祝祭」に対する信憑性の話
なんかあるべき神の姿が絶対無であると知ってから、世の神にまつわる伝承や慣習や祝祭にどこまで意味があるのかわかんなくなってしまいました。
節分もそうなんです。
「起源は?ソースはなに?」といった具合に。
今は比較的安定してるんですが、「突き詰められた一神教」を知った当時は発狂手前くらいでしたね💧
世界人口の1/3を占める某宗教は「ただの相互保証の団体でしかないのか」って、それはもう酷く滑稽に思えたんですよ。
私は、ものの信じる信じないは各人の自由で、それを間違ってると思っててもその人に禁止する筋合いはなくて、誰がなにを信じるかはその人次第だから絶対の不可侵であるべきだ、と思ってはいます。
それでも幼き神を崇めてる様子はどうしても滑稽に見えてしまいます。
ええ、言ってることの重大さは承知してます。
堂々とアンチであることを示す発言であります。
でも否定はしてないんですよ。
ディスってるかもしれませんが。
でもその起源を追求する人は明らかに少なく、ただ盲信してたり面倒臭がってるだけだったりするんじゃないんですかね。
信じたい人が集まって、それぞれが信じたいことをまとめて、それで結論付けてできた慣習や神様や祝祭なんだろうけども、真剣さが欠けてたり形骸化してる様子を見ると、本当にそこに価値や有り難みはあるのかと甚だ疑問に思えるわけです。
ただ「周りが」そうやってるから、「周りが」言う様に倣ってやって、「周りが」、「周りが」…
結局「周り」に身を任せてるだけなんじゃないんですかね。
アイデンティティはそこにありますか?
自分が確実に存在していると言える確固たる信念がなんであるか、説明できますか?
そういう当たり前ができない、心が流浪してる人があまりにも多いのではないですかね。
それもこれも、件の如く「服従と均質を強いる資本主義という世界規模の社会システムに起因する」と私は好んで結論付けますが、それに対してすら「それは間違ってる」と進んで批判できる方はどれほどいらっしゃるのでしょうか。
誰もが方々から迫られる「督促」のために心を殺して働いているためにそういう当たり前を突き詰めることができなくなってるのだとは思ってますが、違いますかね。
ご覧のあなたにはぜひ意見を聞きたいです。
見てくださっただけでもある程度の意思・信念がある方だとは思いますし、そうであれば出る言葉に持論があるはずです。
それを教えてください。
(もっとも、流れる様にしてここに辿り着いて流し見してる「周りが民」の方かもわかりませんが、どうぞ批判の一つでも書いていってください。)
風が強い、不愉快な夜です。
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