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【エッセイ】好きでもない仕事をする可哀想な人へ
まず前提として「わざわざしなくてもいいんだけど、自分が好きだからやってる事」は必ずしも金になる必要はないと言っておきたい。
胸を張って自慢できる「情熱を注いでいる何か」を持っていれば、それを成長させ続ければ、遠からず結果や評判が伴ってくるというのはわかりやすいと思う。
その最たるもの・好きなことを金にできた人は「運良く時の観衆の琴線に触れる何かを持ってたが故に脚光を浴びて評価を得られた一握り」なのだ。
そしてそんな彼らこそ、金や名声よりも先に「まず自分がやりたくてやった」という自主性・能動性があった、ということを言っておきたい。
さて私が言いたいのは「本心では好きどころかむしろ嫌いな仕事を『私の天職です‼︎』みたいに綺麗事を言うアンタはとても可哀想だ」という事。
いや勿論仕事の酸いも甘いもを含めて本心から好きなのかもしれないし、その上で貢献したいとか評価を得たいとか思ってるのかもしれない。
しかし「仮にそれを強いられることがなくなったとして、自ら進んで続けるか?」と問われても同じ回答ができなければ、そんなのは見栄でしかないんじゃないのかと。
1日・数年・人生のほとんどをあーだこーだと文句言いながら好きでもない仕事に費やして、それでもカッコつけるために「まぁこの仕事好きでやってるから(キリッ)」って…
それって生きてて楽しいの?って。
「お行儀がいいんですね」と思わずにはいられなくて。
当然各種支払い義務は全うしなきゃだし、それを踏み倒して誰かに迷惑かけるのは言語道断。
「自立した上で好きなことをすべき」というのは自他の自由のために必要な条件だと私は信じている。
だから、自分の自由を得るために好きでもないことをするのは愚かしく可哀想だと思う。
そして致命的なのは、「その恥ずかしさに本人は微塵も気づいてない」という事。
しかしここには「アルバイトを含めた給与所得者はそうして生きて行かざるを得ないという資本主義が敷いた常識」があるから、一概にその人が悪いとは言えない。
だがそうだとしても「なぜ働かなければならないのか?」について考えもしない浅はかさは愚かであり、「働く以外の選択肢」をそもそも考慮に入れてないのが可哀想なのだ。
ここで冒頭の話、結論「日々を費やしてる嫌いな仕事を取り上げられた時に手元に何も残らないのは、最高に惨めだと思う」という事。
とはいえ「具体的な形としては残らないもの・気付いてないもの」があるだけで、その仕事から得られたものは何かしら確実にあるはず。
だから「自分には何が残ってるのか?」「なぜこの仕事をするのか?」について、つまり自分について考えもしない人は可哀想だと思う訳だ。
なら仕事を取り上げられて何かが残ってたとしたらそれは何か?
それが「わざわざしなくてもいいんだけど、自分が好きだからやってる事」なのだ。
それがどんな形であれ、自分が好きなことをやっているとは「自分について考えること」に他ならないと思う。
嫌いな仕事を優先するあまり「自分について考えること」を後回しにして、それを続けてある日仕事をしなくても良くなった瞬間に「何をしたらいいんだろう…」と燃え尽きる姿は最高に惨めではないだろうか?
その惨状の最大の原因は環境にあって「その人の覆そうとする意志の弱い所ににつけ込まれた結果」とも言える。
だから私は「不本意な現状を甘んじて受け入れる他ない、独力では変え難い不幸」を可哀想だと思うのだ。
私が「自らの恥に気づかず、本心からやりたいとも思ってない仕事にあたかも誇りを持ってるかのように振る舞う姿」に愚かしさ・同情を抱く理由は伝わっただろうか?
どうか「必ずしも金にはならないけど、自分が好きでやってる何か」を見つけて、情熱を注いで育てていってほしい。
いつしか仕事はなくなり、アイデンティティの所在が「自分の外側にある(嫌いな)仕事」にあったことに気づいて不幸になって欲しくないから。
「自分の内側にある好きな事」に情熱を注ぐよう気づいて欲しい。
最後に、「好きでもない仕事をする可哀想な人」には私も含まれている。
本当は働かず支払い義務に苛まれることもなく情報の入出力だけをしていたいのだから。
その間をとって最小限の労働時間で済ませようとした結果が今の私であり、これは今後限りなく小さくなっていくだろうことはまだ私しか知らない。