現代アート
学生時代、現代アートのボランティアスタッフとして、国内外のアーティストの作品制作や展示のお手伝いをしていた。どのような作品に触れたのか、どんな人が訪れたかは詳しくはまた別の機会に書きたいと思う。
アートは、私の学生生活の記憶の大部分を形成してる。一般的に敷居が高く敬遠されがちに思えるが、その内情はとても豊かだ。日本では、モネやルノワールなどの印象派が不動の人気を誇るイメージがある。様々なジャンルがある中、私は現代アートに触れた。
あらゆる価値観で生きてきた人が一堂に集まり、各々様々な手法で表現していく。予算的な制限などの不自由はありつつも、本質的には自由であった気がする。自由であろうとしていたのかもしれない。
人が何かを表現する時に言葉以外を用いることは多々ある。それは、どうにもこうにも言葉にできない、言葉にならないもどかしく複雑な感情やイメージを、なんとかして形として残したいという強い願望や想いから生じるのかもしれない。また、それを表現せずにはいられない、苦しさや葛藤、喜び、悲しみ。そういったあらゆる感情がウヨウヨと彼らの周りを漂っていた気がする。
変わった人として見られてしまうアーティストたちは、確かに本当に変わっていた。一般的かと言われれば、そうとは言えない。複雑でめんどくさくて、ピュアで何より芸術を信じて、憎み、愛し、欲して、理解したくて、すごく真っ直ぐだった。優しくもあった。
そんな人たちに、どうしようもなく憧れ、私は近づきたかった。うらやましかった。しかし同時に、そうはなれないとも思った。もしかすると、うっすらと嫉妬心もあったかもしれない。
物事には、いろいろな関わり方がある。アートひとつとっても、作り手としてだけでなくフォローする人、見る人、企画する人、監督する人。様々だ。私はサポートする側から見た。
もし現代アートと出会わなかったとしても、きっとおそらく普通に生きていただろう。ただ、日常の雑踏に囲まれ少し鬱陶しくなった時に、肩の力を抜いてあの情景を回想するたび、心がふと緩んで優しくて自由だったあの時の思い出と空想に耽ることができるのである。