【雑記】 非連続な私とセーヌ川
割とあっさり過去を捨ててしまえる方なのだが、noteを始めてから、若い頃を思い出すことが増えた。村上春樹さんの小説を読んで、昔の友達を思い出したり、年が近い方の思い出エッセイを読んで自分と比べたり、逆に若い人たちのエッセイを読んで自分の時代と比べたり。一度思い出すと、芋づる式にあれこれ浮かんでくる。
そうやって過去を思い出していると、「あの頃の私は、本当に今の私と同じなのだろうか?」と感じることがある。性格から何から、あまりにも今の自分と違うように思えるからだ。
どこかで断絶があって、それまでの私が消え、別の私がrebirthしたのではないかと(日本語の再生という単語がしっくりこないので、英語にする)、かなり真剣に考えてしまう。
幼い頃から読書と歴史が好きだった。そこは変わらない。でも、継続しているのはそれだけ。あと、外見もそう変わらないか。常に、小柄であまり可愛くない奴だった。
ガモーラ。マーベル映画《ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー》の。この世界のガモーラは死に、代わりに別の時間軸から来たガモーラが残る。二人のガモーラの外見はそっくりだし、サノスの養女で戦闘能力が高いといった点も同じだが、違う部分も多いはずだ(例えば、新しいガモーラは、ピーター・クイルと恋に落ちていない)。
あれと同じように、どこかの時点で、以前の私が別の時間軸の私に切り替わったのでは…? などと荒唐無稽な想像までしてしまう。
別の時間軸、マルチバース=多次元宇宙、パラレルワールド。マーベル映画で今後描かれる予定の概念を突き詰めると、自己の存在に揺らぎが生じてしまいそうだ。
別の世界によく似た私がいるということは、この私が唯一無二の存在ではないということだから。
ただし、ガモーラは、自分が昔のガモーラとは違う存在だとちゃんと自覚しているけど。記憶はどうなっているのかな。記憶は共有できない? 二人の記憶が混在する? やがて、別の世界での記憶が消えるのか。
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なんて。単に、昔の自分のバカさ加減を認めたくなくて、理論物理学の学説まで持ち出して、断絶を探しているわけだ。そこまでして、今の私は昔の私とは違うと確信したいのか?
いや、今でも十分おバカだよ。年の功で、うまく隠せるようになっただけ。本質は何も変わっていない。良くも悪くも。おバカな私の連続性を認めようぞ。
ミラボー橋の下をセーヌが流れる
夜が来て、時の鐘が鳴る
月日は去るが、私は残る
(アポリネール「ミラボー橋」)
目の前を流れるのは神田川だけど、そこは脳内変換で。