徳川家の女性ゆかりの寺をめぐる 文京区篇 【歴史散歩】
伝通院
先日、会社の人たちと伝通院に初詣に行ったところ、「徳川家康公生母 於大の方」と書かれた新しいのぼりが立っていたので、今年の大河ドラマは『どうする家康』だっけと思い出しました。番組HPの登場人物一覧を見ると、於大の方を演じるのは松嶋菜々子さん、於大の方の関係者である久松長家や水野元信も登場するみたい。
大河ドラマといえば、『真田丸』の年に飲み会で隣の人と真田幸村について話していたら、他の参加者に「ネタバレしないで!」と注意されてしまって。ドラマは観ていなかったので、ただの歴史雑談だったのですが、歴史上の事件までネタバレになるのかと驚きました。
なので、於大の方についても、詳しい説明は省きますが、息子である家康にとって、常に心強い味方であったのは間違いないでしょう。
於大の方の菩提寺になったことで、伝通院は六百石を与えられ、増上寺や上野の寛永寺と並んで「江戸の三霊山」と称されたそうです。増上寺や寛永寺には将軍の霊廟があるのに対して、伝通院には、徳川家ゆかりの女性や幼名のまま亡くなった童子のお墓があります。ずらっと並ぶ童子の墓の多さに、江戸時代の幼児死亡率の高さを感じます。特に、十一代将軍・家斉の子どもたち。家斉は子沢山で有名で、実子がいても将軍家との結びつきを強めるために家斉の息子を後継に迎える藩がいくつかあったほどですが、53人のうち成人したのは28人なので、家斉の子どもたちの墓が並んでいました。
他に墓がある徳川家の女性は…千姫 二代将軍・秀忠の長女、家康の孫娘です。七歳で豊臣秀頼と結婚し、十九歳で一人、大坂城から助け出された悲劇の姫君ですが、その後再婚した夫にも十年で先立たれてしまいます。再婚した夫は藩主になっているので、そこにとどまる道もありましたが(藩主の未亡人は大抵そうしている)、千姫は江戸に戻って来たんですね。弟である三代将軍の家光と仲が良かったこともあり、以降は穏やかな日々を送ったと信じたいです。
初姫 秀忠の四女、千姫の妹です。小浜藩主である京極高次に嫁いでいた母方の伯母の養女になり、後継の忠高(高次側室の息子)と結婚しました。初姫の姉妹の嫁ぎ先を挙げると、長女・千姫は豊臣家と本多家(家康の重臣の家系)、次女・珠姫は前田家、三女・勝姫は越前松平家(秀忠の兄の家系)、五女の和子に至っては天皇家に嫁いでいる中、初姫の嫁ぎ先だけはかなり見劣りがします。これは、母親の江が自分の妹の婚家での立場を強めるために、我が子・初姫を妹の養女にしたためだと思われます。江の姉の淀君も含めて、浅井三姉妹には、まわりを不幸にしてしまう人たちという印象が強いですが、初姫も、夫との仲が芳しくなく、京極家ではなく、実家・徳川家の菩提寺に葬られました。
お夏の方 家康後期の側室です。家康との間に子どもはなく、誰かの養母にもなっていません(養母になると、生母以上に影響力を持つこともある)。また、同時期の側室であるお梶の実家が大名(5万石)、お万の実家が紀州藩の付家老(1万5千石)になっているのに対して、お夏の実家は旗本のままです。ただ、家康の側室の中で最も長生きしたので、晩年は非常に敬われたそうです。
鷹司孝子 関白・鷹司信房の娘、三代将軍・家光の正室です。家光は人の好き嫌いが激しい性格ですが、孝子のことは非常に嫌っており、大奥から追放するわ、御台所の名称を剥奪するわ…。死後も、孝子は家光の墓がある日光輪王寺に入れてもらえないだけでなく、歴代の将軍や御台所が眠る増上寺・寛永寺にも入れてもらえなかったようです。
伝通院は、地下鉄後楽園駅or春日駅から徒歩十分。都バスの伝通院前停留所から徒歩一分です。
宗慶寺
伝通院前から池袋方面に春日通りを数分歩くと、吹上坂という静かな坂があります(桜並木で有名な播磨坂の一つ手前)。その吹上坂の途中にあるのが宗慶寺。於大の菩提寺になる前は、この場所に伝通院があったそうです。
宗慶寺には、家康の側室の一人、茶阿局の墓所があります(側室中の重鎮だった阿茶局とは別人)。茶阿は、鋳物師の後妻となり娘を産んだのですが、非常に美しかったため、その地の代官に横恋慕され、夫は闇討ちで殺されてしまいます。そのことを家康に訴えたのが始まりで、後に側室になりました。家康との間には、六男・松平忠輝と早世した七男・松千代、二人の息子を授かります。
忠輝は、伊達政宗の長女・五郎八姫と結婚し、長沢松平家を継いで一時は越後高田45万石を領していたのですが、家康の死後、兄の秀忠によって改易されます。二十四歳の時でした。改易後は、諏訪に流されて、九十二歳で亡くなるまで、配流屋敷で過ごしました。改易の理由としては秀忠との不仲説以外に、五郎八姫を通じてキリシタンとのつながりが深かった、岳父である伊達政宗の存在が疎まれた等諸説あり、今も定まっていません。
一時は家康の側室の中でも特に強い政治力を持っていた茶阿局は、息子の改易の五年後に亡くなりました。
麟祥院
地下鉄本郷三丁目駅を降りて、東大と同じ側の春日通りを上野に向かって歩くと、着物姿の女性の銅像に行き合います。
三代将軍・家光の乳母である春日局の銅像で、その奥にあるのが彼女の菩提寺である麟祥院です(カバー写真は、麟祥院の山門)。今は、銅像がないと見過ごしてしまうほどのお寺ですが、春日局の隠居所として建てられた時には、一万坪の敷地だったとか。また、夏目漱石や森鷗外の小説にも、東大周辺の目印として「カラタチ寺」という愛称で登場するので、明治期にも、かなりの威容を誇っていたと思われます。
春日局の父親は明智光秀の重臣で、本能寺の変で刑死しているんですね。その後、局は母親の実家である稲葉家の人になったとはいえ、謀反人の娘が将軍の後継の乳母になるというのも、ちょっと不思議です。裏切ったのが織田家だったから、徳川家には関係なかったのか。家康の腹心である天海上人が実は明智光秀だったという伝説にも、春日局の存在が一役買っていそうです。
理由はどうであれ、家光にとって、春日局は母親よりも大事な人でした。両親に疎まれた家光のために、大御所・家康に直訴して、家光が次期将軍になることを確定させたとか、家光の病気平癒の祈願のために、以後は一切薬をのまなかったといったエピソードが伝わります。去年話題になった三菱所蔵の国宝・曜変天目茶碗も、もとは家光が春日局に下賜したものです。その他にも、春日局の親戚である稲葉氏や堀田氏が有力大名になったり、従三位を得て後水尾天皇に拝謁したりと、単なる乳母とは思えない存在感ですよね。墓のまわりにも、土井氏や毛利氏等大名が寄進した灯篭が並んでおり、死後も春日局の権威が衰えないことを感じさせました。