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『大吉原展』

 3月下旬に藝大美術館で開催中の『大吉原展』に行きました。

 この特別展は開催前にXで大炎上したんですね。吉原遊廓は江戸時代の幕府公認遊廓であり、遊女たちは金と引き換えに身を売ることになります。前金を払い終われば自由になるとはいえ、吉原が人身売買により成り立つ場所だったのは間違いないでしょう。そんな場所なのに、『大吉原展』のHPでは「ファッションと芸術の発信地、あの素晴らしい吉原、今は消えてしまった吉原を懐かしむ」的な広報がなされたのです。確かに、一時期の吉原遊廓がファッションの発信地であり、芸術家が好んで訪れる場所だったのは間違いないのですが、現代人がそれを明るく賛美したり、懐かしがったりするのは、想像力に欠ける行為だと思います。私立の美術館なら許容範囲かもしれませんが、国立大学の美術館がそんな広報をすれば、炎上するのは当然です(誰も気付かなかったことの方が驚きです)。
 
 そんな具合に、悪いイメージがついてしまった『吉原展』ですが、実際に訪問してみると、「あの軽薄な広報は何だったのだ?」と思うぐらいに、学究的で真面目な展示会でした。浮世絵を中心とする美術品から吉原の実像に迫ろうとする気迫が伝わってきました。もちろん、吉原の陰の部分は浮世絵には描かれていません。江戸幕府はリアリズムを許す政権ではないですし、絵画史的にも、悲惨な現実をリアルに描くような流派はまだない時期なので。それでも、吉原遊廓の頂点に立つ美しい花魁たちや吉原の風物を描く浮世絵によって、吉原の一日、一年が再現され、江戸の初期から明治に至る吉原の歴史を追う試みがなされていました。

 正直なところ、私自身はそこまで吉原に興味があるわけではないので、芸術的観点よりは学術的な観点で選ばれた浮世絵が多すぎて、見るのに疲れて果ててしまいました。二百点以上というのは、美術展としてはかなり多い展示数だと思いますが、その大部分が似た雰囲気の美人画なので……。

 もちろん、芸術的に優れた絵も多数ありました。
 喜多川歌麿の連作『青楼十二時』、これは遊女の一日を描いた連作です。複数の美術館から借りているようなので、十二枚が揃うのは珍しいのではないでしょうか。状態も良い絵ばかりでした。

浮世絵検索より

 他にも、勝川春章や鳥文斎栄之などの浮世絵も。これまで浮世絵といえば、葛飾北斎や歌川広重などの風景画ばかりを思い浮かべていましたが、今後は機会があれば(トーハクに行った時など)、美人画もゆっくり鑑賞してみたいです。

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 ところで、炎上にもめげずに、この特別展に行った理由は二つあります。一つは、鏑木清方の絵を見ること。清方は、明治〜昭和に活躍した浮世絵師&画家です。去年、彼の『築地明石町』という絵を見てすっかりファンになったので、今回の特別展も楽しみにしていました。

 絵の上の部分しか表示されないのですが、これが清方の『一葉女史の墓』です。樋口一葉の小説『たけくらべ』のヒロイン、美登利が一葉の墓にお参りする様を描いています。
 吉原というと、江戸時代のイメージが強いですし、実際に明治5年に芸娼妓解放令が出されて、遊女たちは解放されます。しかし、吉原遊郭がなくなったわけではないですし、前借りという形で遊女たちが縛られるのも、なくなってはいません(戦前の小説には遊女や芸妓と恋仲になった男性が、彼女の前借り金を払う話が見受けられます)。

 『たけくらべ』のヒロイン、美登利は吉原の近くに暮らしており、姉は遊女です。小説の中で、美登利は明るく勝ち気な少女から、寡黙で近寄りがたい娘に変わります。その変化を私は思春期の心の揺らぎ、または生理が始まったためだと思っていました。しかし、ウィキペディアによると、遊女として客を取ったために、美登利が変わったという説もあるようです。何と過酷な運命かと思ってしまいますが、金に縛られるという意味では製糸工場の女工も同じです。明治・大正期には、十代の女工たちが次々に結核に罹患して、亡くなりました。日本全体でも結核死亡率が高かったのに、その中でも十代女性の死亡率が際立っていたのです。
 樋口一葉も貧困の中、若くして結核で倒れた女性の一人ですが、清方の美しい絵を見ながら、自由に生きることができなかった娘たちに思いを馳せました。

 特別展では、鏑木清方の『たけくらべの美登里』という絵も展示されていました。また、洋画家の木村壮八が挿絵を描いた『たけくらべ』も展示されており、一葉ファン・近代文学ファンとして、ここを見るだけでも来て良かったと思えました。

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 この展覧会に行った理由、二つ目は、酒井抱一の絵を見るためです。酒井抱一については、過去にも何度か書いたことがあるのですが、姫路藩の藩主の弟ながら、江戸琳派の中心として活躍した方です。

 江戸後期の画家たちは、絵を描くだけでなく、漢詩や短歌、俳句なども嗜みました。
 例えば、俳人の与謝野蕪村は、明治になって正岡子規が見出すまでは、俳人としてではなく、画家として有名でした。松尾芭蕉にしても、先日出光美術館で見た蛤の絵は、思わず絵葉書を買ってしまったぐらいに心惹かれる出来栄えでした。

 酒井抱一は、若い頃は俳句と狂歌の創作に励んだようです。狂歌については、大田南畝を中心とする狂歌を創作するグループが吉原を拠点としており、抱一も吉原通いの傍ら、狂歌を創作したことをこの特別展で知りました。
 抱一の絵も何枚か展示されていたのですが、特に感銘を受けたのは、抱一が吉原の花魁・小鶯を身請けして、妻として遇していたことです。抱一は、兄の後継ぎ候補として他家に養子に出されることもなく実家で暮らしていましたが、結局、兄に息子が生まれたので、その後は捨扶持を与えられる「厄介叔父」として生きることになりました。厄介叔父は、正妻も持てず、子どもも作れません(江戸時代は、遊女以外も人権のない時代だったのです)。
 身請けした小鶯は、抱一にとっては、芸術面でもパートナーとなりました。抱一が描いた絵に小鶯が漢詩を書いた掛け軸が残っているそうです。
 江戸後期になると、医者や学者の家では娘にも学問や芸事をさせるのが普通でしたし、大名の娘や豪商の娘などで絵画や詩に才能を示す女性も少なくありませんでした。そんな中でも、漢詩を書くというのは、最も難しい芸術だと思います(約束事が多く、過去の漢詩も踏まえる必要があるので)。
 吉原の花魁は決して身を売るだけの存在ではないと言われますが、それが綺麗事ではなく本当だったのが、酒井抱一妻、小鶯によってわかりました。

大吉原展は、5月19日まで。途中で展示替えがあります。チケットは二千円と少し高いですが、浮世絵や江戸文化、遊郭の歴史に興味がある方には必見の展示会だと思いました。

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海人
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