言葉のナイフを突きつけられた日。
(この記事は前回の続きとなります。)
私が辞めるべきか心が揺らいで悩んだのは、とある父親に言われた一言です。
とその前に、やはり私のような人間を雇ってる場合では無いようでもう完全に辞める選択しかできませんでした。なのでもう辞めるべきかどうか、なんてのは考えても今は戻る事はもう出来ません。
さて今回の本題に戻るのですが、私の父は鬱に理解もなければ、そもそも精神疾患というものすら否定をするような人間です。
私は中学生時代もまともに生きて登校する事が出来ず、不登校でした。そんな中でも、少しずつですが学校の中に相談室、という所があり、そこに通い始めました。勉強も自分1人でして、テストもそこで受けていました。そしてその時から、家に帰っては父親から放たれる言葉に、こんな大人にだけは絶対になりたくない。と強く思い始めるようになったのです。そこから今現在までその気持ちは変わりません。母は、私の病気にも理解をしてくれていて、分かってくれて居るので唯一身近で支えてくれるのは、母だけです。それから遠距離ではありますが、少し離れた先で暮らしている恋人もまた心の支えです。もう十分これだけでもとても恵まれてると、そう思います。なのに、それなのに。一人でも傷つけてくるような、言葉で人を殺すような人間が居ると、どうしてもやられてしまうものなのです。私はそのタイプで、本当につくづく自分が嫌になります。
今日は、特に死にたい日でした。直接ではないですが、父親から言われた言葉。
「親だっていつまで生きてるか分かんないんだから、あてにされちゃ困る。そんなんじゃどこも働けない。」
確かにその通り。その通りなのです。正しいんです。わかってるんです、全部。自分がダメダメなことなんて、自分が誰よりもいちばん分かってます。でも体が動かないんです。コントロールできないんです。泣きたくなりました。自分の存在価値を否定されたような気がして、
何もしてない私なんて生きてちゃダメなんだ、死ぬべきなんだ。
そう思いました。だから私は今日を機に、noteに生きた証を死ぬまで残してみようと思いました。
親より先に死ぬのは親不孝です。死んで気がかりなのは、母親の事、恋人の事、そして数少ない大好きなネットで仲良くなった友達の事。それだけがまだ私を生へと繋ぎとめてくれてる命綱のようなもの。
父だけならとっくに死んでました、きっと。はやくこんな迷惑をかける人生から抜け出したいし、自分って生きてる価値も存在してること自体が罪なんだと思うから。
きっとこの記事を読んでくれてるそこの貴方も、そうじゃないどこかの人間も、同じような境遇の人も、みんな常に死と隣り合わせで生きていると思います。今日も生きててくれて本当にありがとう、一日お疲れさまでした。よく一日を耐え抜きましたよね、わたしたち。一緒にいつしか、希死念慮が消えて、生きててよかった、そう少しでも思えるような未来が来てくれることを願って眠りにつきましょう。
不安になったら、いつでも、ここに来てください。一緒に泣いて、一緒に悩んで、一緒に不安を共有しあいましょう。貴方と出逢えて、幸せです。
ここまで読んで頂きありがとうございました!それでは、また。