妄想色男図鑑 5

政治家Kの場合

ずっと兄を邪魔だと思ってきた。眉目秀麗、成績優秀。育ちの良さを絵に描いたような屈託のない笑顔。自分がどんなに頑張っても、お兄ちゃんも優秀だったものねえ、と必ずセットにされてきた。そんな大人たちに憤りを隠さない自分のことを、いつもニコニコ見ていた兄。そうした鷹揚さを褒めそやされてきた兄には、後ろ暗いところはほとんどなかった、ように見える。
ただ男は知っている。同級生を虐めていた時さえも、あの笑顔から爽やかさは喪われることは無かったことを。決して直接手は下さず、強さを誇示したいクラスメイトの男子数人を気弱そうな女の子にけしかけていた。彼女の口に無理に押し込めた手元が何やら動くのを見て、得体の知れない虫を食わせていたのだと気づく。同年代の少年たちが勝ち誇るように残酷な笑い声を大きく響かせる中、兄は薄く微笑んでいた。ひとりの人間を精神的に追い詰めている時さえ、笑えば眉尻が下がる、誰もがいい人そうと呼ぶその表情で笑っていた。不気味な虫を食わせたことより、その子どもらしからぬ微笑みに、うすら寒い思いがしたものだ。
お前、言うなよ。その笑みを貼り付けたまま、兄はすれ違い様に自分に声をかけていった。やっと握ったと思った相手の弱みは、あっという間に覆され、自分の弱みになっていく。絶対的な権力を持つ父は、かつて一国の大臣だった。祖父も大臣を務め、男の家には強固な父権制が根をはっている。父に告げ口をすることは、諸刃の剣そのものだ。なぜ、兄の所業を見て見ぬ振りをしたのか、男らしくもない。父がそう言うだろうことは、火を見るより明らかだっただろう。
古き良き時代のあるべき男像を振りかざす父の反対を押し切り、男の兄はやがて芸能界へと進んだ。一家の思想とは真反対の世界へ進む息子に、父は嫌悪感を隠そうとしなかった。だが皮肉なことに、男の兄をスターダムに押し上げたのは、父親が総理大臣という看板だったのだ。
あいつにはゆくゆく地盤を継がせてやろうと思ってたんだがな、と父親が酒席でふと漏らしたことがある。男が天命を感じたのはその時だった。今こそ、俺が兄貴を超える時が来たのだと。
そして男は涙ぐましい努力を重ねて父親と同じ道へ進んだ。親譲りの精悍なルックスと張りのある声は、まさに政治家になるために生まれてきたかのようだと世間は熱狂した。アウトローな空気をまとい政権をほしいままにした父親の影を男に感じる有権者は多く、未来の総理候補、と持ち上げる提灯記事も定期的に持ち上がる。父親が満足げに、やはりアイツよりお前の方が政治に向いていたんだな、と言われた時には、味わったことのない高揚感が全身を満たしたものだ。これだ、これだったのだ。どんなに俺よりルックスも頭も良くても、兄貴なんざ国1つ動かせない。事実、男が政界で名を馳せ始めた頃、男の兄の仕事は目に見えて減っていた。総理の息子という看板は、魑魅魍魎が次から次へと跋扈する芸能の世界では大した守り札にならず、今やあの総理の息子といえば、男の名前を世間はいちばんに挙げるようになっていた。

政界のプリンスなどと言われれば寄ってくる女も増える。酒席に限らず、自身の娘をことば巧みに売り込む古参の政治家もいれば、肉弾戦を誘うようなテレビ局の女記者もいた。同郷の年上の恋人はいたが、おおっぴらにするほど野暮でも馬鹿でもないと冷徹に計算する。むしろ世間に知られる時は、大事な局面の切り札としてだろう。
脂粉と私欲の絡む誘いをどれも鼻であしらい、とはいえ冷淡さを逆手に取られるようなヘマにならぬよう軽やかにかわす。そうやって政治生命を、いや、初めて兄よりもスポットライトの当たる細い道筋を守ってきたのだった。その時の笑顔は、かつてあれほど嫌った兄の笑顔の作り方に良く似ていた。眉尻を意識的に下げ、目を細める。口角はほんの少しあげて、困ったように見える人の良い顔。
それを指摘したのは秘書だった。まるで似ていないと思っていたけれど、良く似ていますね。何を突然、といぶかしんだ男に、ある週刊誌の名前を秘書は告げた。万が一ということもありますのでチェックしました。普通のご家庭のお嬢さんのようですし、選挙に問題はありません。
移動車の中で差し出された週刊誌には、女性の傍らでいつものように微笑む男の兄の写真があった。熱愛スクープ、美人OLと一つ屋根の下。相手の女性は両目の部分に黒い線が入っているものの、彼女だ、と直感でわかった。よく通った鼻梁、少し丸みを帯びたあご。肩の下で揺れる髪の柔らかささえ知っている。
外は新緑がきらめき、汗ばむことすらある陽気の車中で、気づけば鳥肌が立っていた。秘書が怪訝そうにこちらを見つめる。
何かお加減でも?
お前、言うなよ。あの頃の兄の声が再び聞こえたような気がして、昏いトンネルの中で声を失う。警告を発するかのように灯るオレンジの光が放つ圧迫感。それは、かつて男がしがみついて守り抜いてきた、衆議院の長い廊下にも良く似ていた。

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