夏とともに、夏が逝く。 仕事ぶりは真夏の光線。まぶたの裏で弾け続ける残像を残す、強烈なまぶしさを持っていた。 聞けば本人も夏生まれだと言う。獅子座にふさわしい、王者の風格。トレードマークのスーツ姿は、経営者というよりも引退したプロ野球選手を思わせた。歳の割に密度ある体躯、それは自己顕示欲ゆえではなく、スポーツを愛し愛された者だけが持つ時間の名残を感じさせたからだ。土埃と日なたの匂い。汗の記憶。 けれども、メディア映えする成功者たちが放つ暑苦しさは感じない。むしろ、ひとはけの
シンガーソングライターOの場合 まだ大丈夫、と体重計を降りて男はため息をついた。ゼロへ戻ろうとするデジタルの数字の羅列は、3秒前は75.2だった。180cmをゆうに超える、しかも50歳を迎えた男性の体重としてはなかなかじゃないか。 男には薬物の前科がある。しかも一度や二度ではなかった。文字通り脳が溶けるような快楽がしみついた身体から薬の痕跡を消すのは並大抵の努力では難しく、釈放後のリハビリ期間では薬の代わりにやけに糖分を欲しがった体はぶくぶくと醜く膨れていった。 かつて
芸人Mの場合 窓を叩く雨粒の音に顔をあげた。六畳の和室から見上げた空は、不機嫌な色に染まっている。きょうは大先輩と対談する仕事が神楽坂の方で入っていて、縁起の悪い天気だな、と思った直後、ただこれはこれで自分らしいな。と思い直した。 そもそも、自分らしいってなんだ?この本を選ぶなんて、あなたらしいね。そんなことを言うなんて、君らしくない。芸能人と呼ばれる立場になって、本当に自分のことを知っている人がどんどん少なくなっているように思うのに、そう言われることが増えていく。 履
政治家Kの場合 ずっと兄を邪魔だと思ってきた。眉目秀麗、成績優秀。育ちの良さを絵に描いたような屈託のない笑顔。自分がどんなに頑張っても、お兄ちゃんも優秀だったものねえ、と必ずセットにされてきた。そんな大人たちに憤りを隠さない自分のことを、いつもニコニコ見ていた兄。そうした鷹揚さを褒めそやされてきた兄には、後ろ暗いところはほとんどなかった、ように見える。 ただ男は知っている。同級生を虐めていた時さえも、あの笑顔から爽やかさは喪われることは無かったことを。決して直接手は下さ
アイドルSの場合 女を選ぶ条件で、男の価値が決まる。顔やスタイル、そんなものはあって当たり前だ。料理ができる、セックスの相性、浮気を許してくれるかどうか?そんなものはどうでもいい。俺が一貫してこだわってきたのは、育ち、だ。 小さい頃から選ばれた人間だけが入れる学校でやってきた。有名企業の社長や、各財閥の息子、代々医者の家系。条件はそれだけではない。何ひとつ汚されることなく、都心の一等地に根付いてきた家柄であること。そして両親のどちらかが、あるいは両方が、この学校の出身で
アスリートNの場合 スポーツをしている時以外はただの人だね、と彼女は言う。それは昔から母や姉や、周囲にいた女性から言われてきたことだった。 男性はいくぶん、侮蔑のニュアンスを込めて言うのと対照的に、多くの女性の声にはバカな子ほど可愛いというような、母性というほど聖なるものでもないが、まあるい残酷さと背中合わせの愛情が見えた。 フォークに巻きつけたパスタを落として、あ、と男はカエルが鳴くような声を上げる。目の前にいる彼女はうれしそうに「ほらあ、そういうとこ」と言って頬を撫
アナウンサーAの場合 城はいい。何百という戦を経ても、何事もなかったかのようにそびえる余裕というか。無数の人間が押し寄せるのに辟易としながらも、その場に居続けるしかない諦念というのか。自分の職業にも似たそのたたずまいを背に、男はため息をついた。 アナウンサー人気ランキング、という下世話なものに自分が載るようになったのは10年ほど前からだ。女性と違い、男性アナウンサーの場合はルックスというよりは番組運びのうまさや脇役としての分別、そして私生活でも清廉そうなイメージが鍵を握
歌手・俳優・文筆家Hの場合 名刺に嘘を書いたら罪に問われるのか。 本当にその名前か、その職業か、はたまた存在する生業かどうかも誰も見抜けないのに。 翻って、果たして自分は何者か。名刺交換をした相手の役職を見て考える。 こう言う業界なので名刺は持たない。作ったこともない。自分の身ひとつでのしあがるこの世界において、自分の会社と役職と名前を一枚の紙切れで名乗ることは、とても空虚でおかしなことに見える一方、よりどころがある妙な自信をうらやましく思う。今でこそ世間では多才、八面
あたらしいiphoneのピンクの背中はすべすべとして、たいそうなお金はかけられないけれども、お風呂上がりのお手入れは忘れずに来た女子大生の肌のようだ。そんな見えないところに手をかける自負と、そこに気づく手練れの男を待っていたかのような傲慢さも含めて。そして何より指の腹でなでさするたび、ささやかな幸福を感じさせることに。そんな乙女を片手にのせて、きょうから書き始めます。