きものの世界を知ろう 2
ご訪問いただきありがとうございます。
このnoteは、「きもの」を知りたい、これから学びたい、さらに深めていきたい方へ向けて、「そこにきものがあるような」「そこに先生がいるような」
そんなページを届けています。
前回に引き続き、「きものの世界2」をお届けします。
1、飛鳥時代
6世紀前半、仏教とともに東アジア圏の進んだ文物が渡来しました。
聖徳太子は、国内の体制作りに力を注ぐことになりました。
〔冠位十二階〕
日本初の衣服令(六〇三)。随の制度にならって、紫(徳)、青(仁)、赤(礼)、黄()、白(義)、黒(智)と定め、それぞれ濃、淡で十二階とし、冠も同色とした。衣服は権威の象徴となりました。
〔高松塚古墳の婦人像〕
形は衣裳(きぬも)ですが、全体にゆったりとなり、衿は着物風で、右衽、左衽とまちまちに打合わせています。
衿、裾、袖を別布で縁どり、裳はプリーツ状で、三色の縦編や、模様染があり、配色も豊かです。当時の朝鮮半島の衣服に近い形だといわれています。
2、奈良時代
すべての規範を唐に求めた時代で、衣服も完全に唐の模倣となりました。大陸文化を取り入れる努力は、東大寺の大仏開眼供養で頂点に達しました。衣服令により、儀式時に着用する「礼服」(らいふく)や女官の勤務服の「朝服」(ちょうふく)、庶民が公事に奉仕する時の「制服」(せいふく)が取り決められました。また中国では騎馬民族の習慣である左衽を嫌い、右衽に統一しましたので、我が国も「右衽の勅令」がでました。
男性の衣服/袴を隠す「襴」(らん)
襴は、上着の裾につけた横幅の布で、これにより、下衣の袴を隠しました。袴があらわになる騎馬民族の胡服を嫌った漢民族のアイデアです。襴のついた「有襴衣」(うらんい)は男性の文官の表着「袍」(ほう、またはうえのきぬ)となり、襴のない「無襴衣」は、裾の割れた軽快なもので、武官が着用しました。
女性の衣服/軽ろやかな裳や比礼(ひれ)
万葉集には、赤裳の裾を引き、恋人に長い袖を振る乙女の姿があります。衣裳を楽しむ様子は、現代と変わりありません。
薬師寺の吉祥天画像が当時の「礼服」に近い姿といわれています。髪は「宝髻」(ほうけい)といい、髻に飾りをつけ、大袖の上から裳を二枚つけて、縦帯という縁のついた長い飾り帯を中央で花結びにしめています。
「襪」(しとうず)という指の分かれていない足袋に、帛で金銀の飾りのある「舄」(せき)と呼ぶくつをはきました。
後に服飾品がふえ、「背子」(はいし)という短い上着や「比礼」(ひれ)というスカーフも着けました。帯やひもを結ぶことは「魂結び」であり、恋人の心をつなぐ大事な行為でした。万葉の人びとは、今日では考えられないほど深く、衣服と着ることに結びつけられていたようです。
3、天平の三纈(てんぴょうのさんけち)
染色や紡繊技術が一段と進んだ時代でした。
染色は大陸からの帰化人により、媒染剤を使う方法や、紫草、紅花、蘇芳木などの染料植物が伝えられました。
天平の三瀬とは、臈纈・ロウケチ(ろう染)、纐纈・コウケチ(しばり染)夾纈・キョウケチ(板締染)のことで、大陸の影響を受けた華麗な色彩を染め上げる技法でした。織物は、綾、錦、羅、紗などの高級織物が織られ、これらは、聖武天皇遺愛の品を納めた正倉院の御物裂に見ることができます。
4、繧繝
東大寺など寺院建築の装飾や、仏画に使われた異国的な鮮やかな彩色方法です。唐から伝わりましたが、源は西域(ペルシャ)に発するとされ、奈良時代から流行しました。同系色の数種の色を段階的に淡色から濃色へと彩り、日月の暈(かさ)を思わせるので、暈繝とも書きます。
十二車の「襲色目」は、この技法の日本的解釈と発展とみられます。
5、今日のまとめ
いかがでしたか?
大陸側から、たくさんの技法、彩色、アイディアが伝わり
今に至っていることがわかります。
次回は、次の時代「平安時代」に進んでいきます。