短編小説 魚の口
和美は、高校へ向かう道をゆっくりと歩いていた。駅へ向かう通勤の大人たちを横切るように歩いて、大通りから少し狭い路地に入る。この通りは途中までは小・中学校に向かう道と同じだった。静かな裏通り。
以前は本屋や喫茶店、洋食屋などもちらほらとあったが、和美が小学生のころから残っているのは、角にある古本屋だけだった。多くは建て替えられて、マンションやテナントビルに変わっていた。
近くの町にIT系の大きな企業が移転してきたので、その影響で駅近くは以前より賑わうようになっていたが、昔の街並みとはだいぶ様変わりしていた。
ゆっくりとした歩調で白いナントビルの前を通り過ぎる。ここは、以前は喫茶店があった。ガラス窓の向こうでのんびりとコーヒーを飲みつつ雑誌を読んでいる女性や、気難しそうな顔をして文庫本を読んでいる男性などが窓の外から見えていた。
――私もあんな感じでのんびりと過ごしてみたいな。
ちょっとませた小学生だった和美はそんなことを思っていた。
喫茶店の入口は、上がアーチ状になっていて、それに合わせるように、Fomalhaut、という文字が店の壁に描かれていた。入口の横にはメニューが書かれた看板が立てかけられていて、それはランドセルを背負った和美と同じような高さだった。
そこに書かれたメニューを覗いて行くのが和美の日課のようになっていた。この喫茶店はパイのメニューが豊富だった。
春には、イチゴのパイ、夏にはピーチパイやアプリコットパイ、秋には洋ナシのパイ、冬のアップルパイ。
メニューに季節を感じているうちに、日々が過ぎていく。看板はいつの間にか和美の背よりも低くなっていた。
和美は店の名前のFomalhautについて調べてみた。フォーマルハウトという、みなみのうお座という星の一等星のことだった。なんとなく、フォーマルハウトという、その響きと、喫茶店の雰囲気がマッチしているように思えた。
――何時かこの店に入ってみよう。
来年はランドセルから学生カバンに変わるという頃、何時ものように店の前を通ると、店の入口に、Close、という文字のカードが掛けられていた。時々、そうして店が休みになっていることもあるので、それほど気にせず通り過ぎた。
翌日も、Close、の文字はそのまま。それが一週間、二週間、と続いて年が明けた。そのうち、Close、の文字版は無くなったが、外から覗いた店の中には何も無くガランとしていた。
やがて、喫茶店のあったちいさなビルは取り壊されて、白いテナントビルに変わった。
***
「待たなくても良かったのに」
図書委員の委員会があって、和美が図書館を出たころには日は沈んで薄暗くなっていた。
「本読んでたから、そんなに気にならなかったよ」
友達の裕美が明るい笑顔で言う。
「図書委員も大変なんだね」
「まあ、どんな本を入れさせるかって駆け引きがね」
二人並んで歩く通りの並木のハナミズキは葉が大分落ちて、かさかさと足元で音を立てていた。
和美がふと空を見上げると、南の空にひとつ、ぽつんと星が輝いていた。
「あの星、なんて星なの?」
和美が裕美に尋ねた。裕美は星が好きなので、きっと知っているだろう。
「あれ、あー、南の方だから、フォーマルハウトかな」
和美の足が止まった。
――あれが、フォーマルハウト。
実際に星を見るのは初めてだった。ぽつんとひとつ、光るその星は、フォーマルハウトという響きにぴったりだった。
「どうしたの?」
立ち止まった和美を見て、裕美が声をかける。
「うん、フォーマルハウトって名前は知ってたけど、見るのは初めだなって」
「そうなんだ」
二人、立ち止まって空を見上げた。
「そうだ、フォーマルハウトって、なんて意味なの?」
「フォーマルハウトの意味? 魚の口って意味だよ」
「え、魚の口?」
「うん。みなみのうお座って星座の口の所にあるから」
魚の口。和美の頭の中に、口をパクパクとしている、池の鯉が浮かんだ。
「ああ。何ていうか。私の記憶が……」
裕美は、そんな和美を見て、小首を傾げている。それを横に、和美は急にスマートフォンを取り出すと、手早く操作する。
「いや、まあ、そうか」
”フォーマルハウトはみなみのうお座の一等星で、魚の口、と言う意味である”
普通にそう表示された。
――なんでいままで気が付かなかったのかな。
綺麗なイメージのままで頭に残っていたからなのか。
「あーあ、もう、ばくばくしてる池の鯉しか思い浮かばないや。裕美のせいだね」
「えー、私のせい?」
言いあう二人の上で、ぽつんと一つ、星は輝いていた。
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