子どもといっしょに、春の畑へ
ロマネスコの写真をズームで撮影したのですが、
そういえば
ぶつぶつの集合体が苦手・・・という声が聞こえてきたので
イラストに切り替えてみました。
写真は後半に出てきます。苦手な方は
そこだけ キュッと 目を瞑ってくださいね。
子どもは自然が大好き。
それは私にとってはちょっと綺麗事で、
ほっといてもどろんこで駆け回ってくれるなら世話はない。
畑 は人間にとって必要な栄養を計画的に栽培する場所。
きちんとたてられた 畝を
縦横無尽に走り回られては困る。
しかも貸し農園。他者様の畑の中にポツンと一軒家ならぬ8畳園。
口うるさくなりたくはないけど、「人の畑に入らないで」が決まり文句。
そして
整然とした自然には、我が子はさほど きゅん としない。
ではどうするか。
答えは単純、 戦うのだ。
ちょうど生垣の端には、セイタカアワダチソウの枯れ枝が
たくさん落ちている。
すっと伸びたその棒こそが、
子どもの キュンキュンポイント なのです。
私にも持ってくるように言い、勇んで棒を探し回っている間に
畑の整備を進めるのが私の仕事で、
これぞ聖剣 とばかりに自信満々に超長い棒を握りしめ戻ってきたら
私も オラオラかかってこい と渡された心ばかりの短剣で応戦する。
剣と剣(実際には直径2cmほどの棒と棒)がギリギリと力を伝え合う
時の、子の満足げな顔。
そのやる気を合気道のようにゆるっと流し向けるは
難攻不落、「ロマネスコ城」。
乾いた大地に力強く根ざしたこの城も、今日が見納め。
短剣をナイフに持ち替えていざ「えいや」と茎を切る。
「やる?」
「やる。」
おやどうした?さっきの勇ましさはどこかへ飛んで、
ナイフを握る手の弱々しいこと。
まったく。ほんと、まだまだ頼りない小さな手。
「じゃ、おかあさんが上から持ってあげるから
いっしょに切ろ。」
ロマネスコ城の茎は太く、100円のペティナイフをノコギリの
ように引いてようやく株を切り終えた頃には
もう子どもの目はそこにない。
「おかあさん、早く 戦おう。」
🥬 🥬 🥬
夜。
ご飯のときに、茹でたてのロマネスコと、小さく芽を吹き返した
ブロッコリーのサラダを出す。
子どもは 動物性タンパク質が好き。
野菜は 私が皿に載っけてやる。載せれば非常によく食べる。
「 いのち だよ。」
「ん?・・・・・・・・・・・・・そうだね、命だね。」
「ここにあるものぜんぶ、 いのち なんだよ。」
・・・・・・・・おぉ。すごい。
おかずいっぱいの口からこぼれた
「 いのち 」という言葉。
誰も教えてない、少なくともウチでは。
食べ物=命という表現は、園の食育の賜物かもしれない。
でも、
親の知らない 子自身の体感を以って
この食卓で「いのち」を感じた その大切な一人の「いのち」は
いくつにも合わさって続いてきた 命の一つ。
その光景が
淡い黄緑色に光るロマネスコの一粒一粒と重なる。
私たちは
「いのち」をつないで、生きていく。
🥬 🥬 🥬
近所の八百屋にロマネスコが並ぶ前から、
この美しい形の野菜は note に登場していました。
私が出会ったよりすぐりの note de ロマネスコ は、
ゼロの紙さんの
ももりゅうさんの
の2作品です。
この二つは、ロマネスコを育てている最中にも何度も思い出していました。
そこに重ねて、今回の記事を書いてみました。
ゼロの紙さん。ももりゅうさん。
子どもほど純粋ではありませんが、
二人からもらったことばの「いのち」
わたしも繋げさせていただきました。
ありがとうございます。